小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1420 大量遭難の背景は 映画『エベレスト3D』と原作『空へ』

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 登山の醍醐味は、困難を乗り越えて頂上に立ったときの達成感なのだろうか。登山をやらない私にはその辺のことは分からない。1996年にエベレスト(8848メートル)で起きた大量遭難で、遭難を免れたジャーナリスト、ジョン・クラカワーが体験したことは、そうではなかった。 大量遭難を描いた映画『エベレスト3D』を見た後、遭難した商業登山隊(ニュージーランドの会社が募集したツアー登山)に参加したクラカワーのノンフィクション『空へ』(文藝春秋社)を読んだ。

 クラカワーは取材を兼ねて遠征隊に入り、エベレストを征服、無事帰還している。しかし、頂上に立った時の心境は達成感よりも不安感だった。  

「エベレストの頂上に立ったら、それをきっかけに強烈な昂揚感が込み上げてくるはずだった。ついにわたしも、さまざまな不利な条件を克服して、子供のころから密かに狙ってきた宝物を手に入れた。だが、じつは、頂上は単なる折り返し点にすぎないのだ。自分を褒めてやりたいと思う気持ちなど、どこかに消し飛んで、行く手にはまだ長く危険な下降が横たわっているのだ、という思いにわたしは圧倒されていた」

 その不安は的中し、このときのツアー登山では猛吹雪に遭遇した2組8人が遭難、死亡した。その中には日本人の女性登山家、難波康子も含まれている。難波はエベレストの頂上に立ったが、下山途中に行く手を嵐に阻まれ、第二キャンプのわずか300メートルまで到達しながら無念の死を遂げている。

 ツアーを企画した2組のガイド・隊長はベテラン登山家だったにもかかわらず、2人とも遭難して死亡している。 これまで『八甲田山』(森谷司郎監督、高倉健主演)や『釼岳 点の記』(木村大作監督、浅野忠信主演)といった山岳ものの映画を見たことがある。『エベレスト3D』も実写を基にしたものであり、3Dという特徴もあってつり橋のシーンを含め、臨場感は圧倒的である。

 驚いたのはエベレストが当時から登山家であふれ、渋滞が起きていたことだ。 だが、正直なところこの映画を見た限りではなぜこうした大量遭難が発生したのか、理解することが困難だった。クラカワーの本は、その疑問に答えるものだった。 彼はこう書いている。

「個人的な苦境に目をつぶって、頂上目指して突き進んでいくように頭脳がプログラミングされている人は、不幸なことに、しばしば、目前に迫った容易ならぬ危険の徴候をも軽視するようにプログラミングされている。エベレスト・クライマーの一人一人が最終的に直面するジレンマの核心は、そこにある。成功するためには、並々ならぬ意欲が必要だが、その意欲も度を過ぎると、死を招く。とりわけ、8000メートルより高いところでは、適正な熱意と無謀な登頂意欲との境界は、悲しいほど薄くなる。それで、エベレストの斜面のあちこちに死体が散らばっているのだ」

 エベレストで遭難した登山家の中には「なぜエベレストに登るのか」という新聞記者の質問に「そこに山(エベレスト)があるから」と答えたことで知られるイギリス人、ジョージ・レイ・マロリー(1924年に遭難、遺体は75年後の1999年に発見)もいる。たしかに、当時エベレストは未踏(イギリスの登山家エドマンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・が1949年5月28日に初登頂)であり、マロリーは度を過ぎた意欲で頂へと向かったことは間違いないだろう。

しかし現在では、日本の登山家、山野井泰史、妙子夫妻を描いたノンフィクション『凍』で沢木耕太郎が書いているように、「8000メートル峰14座完登」や「7大陸最高峰登頂」は最初に誰がやるかということにゲームとしての面白さがあるにしても、単なるピークコレクションであり、小学生が夏休みにやる鉄道駅のスタンプラリーほどの意味しかないという。

 さらに沢木は「エベレストは登らせ屋によるツアーが存在し、金さえ払えば、シェルパに酸素ボンベを持ってもらい山頂まで張りめぐらせた固定ロープをつたってのぼることができる。登山の歴史という観点からはほとんど意味がない」と商業ベースの登山隊の姿を批判している。クラカワーの本の中にも、ガイドに引っ張られて登頂、下山する金持ちの女性も紹介されていた。 ピークコレクションの顧客を遭難させたツアーは無謀としか言いようがなかった。いまエベレストは、このような登山家たちが残した排泄物やごみがあふれ、大きな問題になっている。