小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1419 谷風と北の湖 1974年夏の思い出

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 大相撲の第55代横綱相撲協会理事長の北の湖が亡くなった。62歳という年齢は長寿社会の現代では若い。北の湖理事長の死は、現役時代に無理を重ねる力士の寿命があまり長くないことを示している。訃報を聞いて41年前のことを思い出した。北の湖横綱になった1974年(昭和49)夏のことである。

 この年の7月場所(名古屋)後、北の湖は21歳2カ月の若さで横綱昇進が決まった。恐るべき若者だった。北の湖は北海道壮瞥町の出身だが、なぜか私が住む仙台にやってきて宮城県庁に隣接する勾当台公園横綱の土俵入りをやったのだ。次の本場所秋場所)が始まる前のことだった。

 勾当台公園の一角には、江戸時代に活躍した第4代横綱で仙台出身の谷風梶之介(第2代谷風、1750―1795)の銅像があり、北の湖は谷風に風貌がよく似ているといわれていた。そこでこの大横綱にあやかろうと仙台に足を運び、土俵入りをやったようだ。

 谷風は横綱史上屈指の強豪といわれている。全盛期の双葉山大鵬千代の富士白鵬が対戦したらどうなるか、想像するだけでも面白い大横綱なのだ。 北の湖の土俵入りのとき、たまたま私はこの公園にいて北の湖を間近に見た。青年北の湖は報道陣の問いかけに「大横綱の谷風関のようになれるよう、頑張ります」と答えていた。その表情は初々しかった。

 この土俵入りが功を奏したのか北の湖は力を発揮し、優勝24回という大横綱となった。さらに人望、経営能力もあって相撲協会の理事長を2回も務める実力者として大相撲を牽引した。いま、大相撲は八百長という汚点を乗り越え、一時の翳りの時代から脱却しつつある。北の湖理事長の功績が大きいと言われる。

 しかし、その内実はモンゴル力士頼りの実態が続いている。白鵬がやや衰えの兆しがあるとはいえ、このところの優勝力士はモンゴル勢のみだ。対抗すべき日本人大関3人は、大関という地位を守るのに精いっぱいというのが現状で、多くは望めそうにない。 理事長の北の湖は大相撲の次の時代を考えていたのではないか。劣性だった日本人力士の中から有望力士が誕生するという時代である。

 解説者の元横綱北の富士も、千秋楽の解説でそのことに言及していた。それが実現するのはいつかは分からない。

970 谷風、雷電と稀勢の里 失望した大相撲夏場所