小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1385 大災害から復興したオランダの古都  フェルメール・「デルフトの眺望」

画像 8月になった。部屋の絵カレンダーをめくると、今月は日本でも人気が高いヨハネス・フェルメール(1632~75)の風景画『デルフトの眺望』だった。フェルメールが自分の生まれ故郷、オランダ南ホラント州デルフトの朝の町並みを描いた作品だ。 

 1660〜1661年ごろの作品といわれ、スヒー川の対岸から運河と市壁に囲まれた街並みを描いたものだ。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』にも登場する美しい絵だ。

 デルフトはロッテルダムとハーグ(デン・ハーグ)の中間にあり、現在の人口は10万人に満たない都市だが、古都として観光客を集めているという。フェルメールは、生涯のほとんどをこの街で過ごした。

 この街では、「デルフトの眺望」が描かれる前の1654年10月12日に火薬庫の爆発事故があり、数百人の死傷者を出し、街の北東部分の建物が吹き飛ばされた記録が残っている。死者の中には17世紀最大の画家といわれるレンブラントの一番弟子も含まれていたという。

 フェルメールの自宅は大きな被害を受けた教会の近くにあり、妻と11人の子どもも含めて難を逃れた。 こうした歴史的な事実もあって、この作品は街が美しく復活したことに対し、神に感謝を込めて描いたのではないかという説もあるが、真偽は分からない。

 大爆発に遭遇しながらデルフトはオランダ国内中から義援金が集められ、数年で復興したという。それは、内戦で破壊されたクロアチアドブロブニクの街並みが、世界からのボランティアの協力で復活したことの先例のようにも思える。東日本大震災でがれきの街と化した被災地各地は、2つの街のような風情ある街並みを取り戻すことができるのだろうか。

 デルフトは中国磁器や日本の伊万里焼に影響を受けたといわれる、白色の袖薬にスズ釉薬(青色)を用いて彩色、絵付けするデルフトブルーの陶器で知られ、フェルメールが生きた時代、最もこの陶器生産が盛んだったという。

 現在ではヨーロッパの陶器といえば、マイセン(ドイツ)やロイヤルコペンハーゲンデンマーク)の方が有名だが、かつてデルフト陶器はヨーロッパでの人気は絶大だったようだ。 オランダの多くの家庭には17~18世紀のデルフト陶器に風景画を描いた陶板が残っているというから、小都市とはいえ現在でもデルフトはオランダでは一定の位置を占めていることは間違いない。

 フェルメールの作品は、「フェルメールブルー」といわれるように、やや紫みを帯びた深い青色(群青色)をアクセントとして使っている。その青はデルフト陶器と共通点があり、フェルメール自身、デルフト陶器を愛好したことがうかがえる。

 フェルメールは多くの借財を残し42歳でこの世を去り、現在彼の真作といわれる作品は35点しかないという寡作の画家である。風景画もほとんど残っていない。オランダの家庭に保管されている陶板に、もしかしたらフェルメール風景画が混じっているかもしれない。

光の画家フェルメールと帰属作品

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