小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1367 『風に吹かれて』と『ティアーズ・イン・ヘヴン』 時を超えた名曲

画像

 詩人・コラムニストの高橋郁男さんが詩誌「コールサック」で連載している『詩のオデュッサイア―ギルガメシュからディランまで、時に磨かれた古今東西の詩句、四千年の旅』という詩論が7回を数え、米国のミュージシャン、ボブ・ディランの『風に吹かれて』(Blowin' in the Wind)が紹介されている。

 ギルガメシュは、古代メソポタミア叙事詩に登場する英雄であり、暴君で、高橋さんの詩論はこの叙事詩から始まり、ディランに至っている。 一方、最近、ディランより4歳年下の英国のミュージシャン・ギタリスト、エリック・パトリック・クラプトン(1945~)の『ティアーズ・イン・ヘヴン』(Tears In Heaven)も聴く機会があった。

 2つの歌は時を超えた名曲であり、歌が持つ意味について考えさせられた。 高橋さんは『風に吹かれて』の冒頭部分を「幾人もの先達の訳詞に学びつつ、我流の意訳」としたうえで、以下のように訳している。

 どれだけの 道を辿れば 人は認められるのか どれだけの 海を渡れば 鳩は砂浜に安らげるのか どれだけの 弾が飛べば 砲撃は永遠(とわ)に止むのか その答えは 友よ 風の中にある 答えは 風に吹かれている

 ディランがキューバ危機の直前に吹き込み、フォークグループ、ピーター・ポール&マリーがカバーしたことで世界中に広まったこの曲は、米国の公民権運動のテーマソングだともいわれた。ディランの詩について高橋さんは「『天・地・人』の世界を連想させる大地を歩む人と海を渡る鳥、そして空を飛び交う砲弾に絡めた問いを重ね、その答えは風に吹かれて‥と結ぶ。確かに、その答えは見つかりそうもないが、絶対・永久に見つからないとも言えない。そのあいまいさと、全否定はしたくないという思いが微かながら希望を留め、未来に繋ぐ」と書いている。

 高橋さんが「彼の『How Many』の問いかけは60年代で留まることなく、21世紀の今もなお古びず、切実に感じられる」と書いているように、時が流れても世界は何も変わらず、閉塞状態が続いている。この詩はいまも色あせない。

 一方、事故によって4歳の息子を亡くすというつらい体験をしたクラプトンが息子に捧げるために『ティアーズ・イン・ヘヴン』をつくったことはよく知られている。息子を失った悲しみ、それを乗り越えて立ち直ろうとするクラプトンの思いが込められた静かな曲である。

 このブログで何度か小児がんのため8歳で短い生涯を閉じた石川福美ちゃんのことを取り上げている。これを読んだ知人は、なぜかこの曲を口ずさむようになったのだという。それを伝えてきたメールには「福美ちゃんのご両親は、この詩のようなお気持ちで生きていくのだろうと感じています」と記してあった。

 以下は高橋さん流に試みた冒頭部分の意訳。

 天国で会ったら 名前を覚えていてくれただろうか 天国で会ったら 前と変わらないようにいられるだろうか 強い心で耐え 生きていかなければ だってまだ天国に行けないことを 分かってくれているから この詩もまた、時を超えて人の心を打つ。

 2つの歌のユーチューブ

風に吹かれて

ティアーズ・イン・ヘヴン