小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1305 進まぬジャーナリズムの変革 メデイァ批評15年のコラム集

画像 朝日新聞原発事故をめぐるいわゆる「吉田調書」と慰安婦に関する「吉田証言」の2つの誤報問題は、日本のジャーナリズムが危機的状況にあることを感じさせる。そんなときに新聞通信調査会が刊行した『ジャーナリズムよ メディア批評の15年』という本に目を通した。

  著者は元共同通信社の外信部記者で、論説副委員長を務めた藤田博司さんだ。藤田さんの訃報が今朝の新聞に出ていた。77歳。生涯現役を貫いた人生だった。

  藤田さんは、新聞通信調査会報『メディア展望』の中の「メディア談話室」で、ジャーナリズムの動きを追ったコラムを1999年から書き続けており、この本はその中の65本(最後は2014年8月号分)をまとめたものだ。同書はコラムを「ジャーナリズムの原則」「ジャーナリズムの役割」「劣化するジャーナリズム」「政治報道の足かせ」の4つの章に分け、65本目は、はぐらかしと持論の主張を繰り返す安倍首相の言葉についてのコラム「首相の言葉には検証が必要だ」である。

  このコラムによる批評で藤田さんは「多くのメディアが安倍政権の広報戦略に協力的で、首相の発言、政府の発表はそのまま報道されている。信頼を置けるのならそれでいいが、多少とも疑わしい問題点があるようなら当然、検証し、疑問や矛盾をただす必要があるが、安倍政権下でのメディアの報道はそうした責任を果たしているのか」と書き、メディアに厳しい目を向けている。

  このような、メディアの現状を突く言葉が「まえがき」に載っている。以下、その要点。

  1、本書をまとめるため15年分のコラムを読み返しながら、あらためて気づいたことがある。それは、メディア、ジャーナリズムの抱える問題が、コラムの執筆を始めたころと現在でほとんど変わっていないと思われることである。実際にある時間を置いて繰り返し取り上げたテーマがいくつかあるし、繰り返しを避けるため取り上げるのをやめたケースもいくつかある。それほどに、メディア、ジャーナリズムの変革は遅々として進んでいない。

  2、いま米国では多くの新聞が経営の危機に見舞われている。新聞の危機は、それが担ってきたジャーナリズムの危機でもある。日本ではまだ米国の深刻さに直面してはいないが、いずれ同じような危機に立ち向かわねばならないときが訪れることは間違いない。伝統的なメディアがその危機に対処するための有力な支えは、読者、視聴者からの信頼である。(中略)しかし、現状は必ずしもメディア、ジャーナリズムが市民の信頼を十分に確保できているとは言えそうにない。これらが存続できるかどうかは、報道に携わる現場の仕事が市民の信頼と支持を得られるよう、どこまで自助努力と自己変革を実現できるかにかかっている。

  藤田さんの訃報に接して、この指摘を遺言のように読んだ。

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 この本には収録されていないが、最近出たばかりの『メディア展望』10月号には、「朝日の検証で欠ける『公正』実践の有無」と題した藤田さんのコラムが載っている。藤田さんは、このコラムで「朝日の誤報問題は正確な事実を伝えるための基本原則である『公正さ』がおろそかにされていなかったか、というところにたどり着く。朝日だけでなく、日本のメディア全体が共有する問題であることにも気付かされる」としたうえで、2つの問題点を挙げている。

  まず慰安婦問題。

慰安婦報道に関わる朝日批判は、慰安婦を強制連行したとする虚偽の証言に基づいて長期間、報道を続けたことと、その報道の誤りを認め取り消すまで32年もの時間を要したことの2点に集約される。これらの点では朝日は批判を甘受せざるを得まい。しかし強制連行の証言が虚偽とされても、日本軍が戦地で慰安所を管理、運営し、多数の慰安婦を働かせていた事実が消えるわけではない。日本政府が慰安婦問題に向き合い続けなければならない状況は変わらない。その事実が朝日批判の喧騒の中でかき消されそうになっている」

 次に吉田調書問題。

「ひたすら朝日の『誤報』が強調され、朝日による報道で調書の存在が明るみに出るまで政府がそれをひた隠しにし、歴史的な原発事故の原因究明や将来の再発防止に向けての教訓を学ぶ機会を政府当局が妨げてきたことの責任などは、ほとんど論じられていない。原発再稼働の是非が目前の政治課題になっている今、調書の公開に消極的だった政府の姿勢はもっと厳しく問われてもいいのではないか」

  藤田さんはこのように今回の問題点を整理して、一連の朝日問題の感想(要点)を記している。

 「それにしても、吉田調査報道についての謝罪と記事取り消しは『あつものに懲りてなますを吹く』の感を免れない。初報の見出しが不適切であったことは認めるにしても、虚偽証言に基づいて長期間報道を続けた慰安婦報道の罪と同等に扱うことはできない。慰安婦報道への対応の遅れに対する厳しい批判に過剰に反応した結果ではないか」

 「朝日が取った措置は、現場の記者たちへの影響はもとより、調査報道を含む朝日の報道全般のあり方にも影を落とすことになりかねない。『調査報道の死』を予言する声もある。(中略)朝日の紙面が当たり障りのない発表ものばかりで埋まるようになれば、それこそ『ジャーナリズムの死』を意味することになる。朝日たたきに精出してわが事案成れりとしたり顔の他のメディアも、気が付けばいつの間にか政府の手の上で踊っている状況がやってこないとも限らない」

  作家の半藤一利氏が藤田さんと同じような指摘(週刊文春のインタビュー)をしているのを読んだことがある。重い指摘である。

 「いまの過度な朝日バッシングについては違和感を覚えます。週刊文春を筆頭に読売、産経などあらゆるメディアが一つになって、ワッショイ、ワッショイと朝日批判を繰り広げている。私は昭和史を一番歪めたのは言論の自由がなくなったことにあると思っています。これがいちばん大事です。昭和6年の満州事変から日本の言論は一つになってしまい、政府の肩車に乗って、ワッショイ、ワッショイと戦争へと向かってしまった。あの時の反省から、言論は多様であればあるほど良いと思うのです。

 私のような爺いが集団的自衛権や秘密保護法に反対と堂々と声を出せることは大変ありがたいこと。こういう声が封じられるようになったら終わりです。今の朝日バッシングには、破局前夜のような空気を感じますね。好ましくないと思っています」