小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1301 国産ウイスキーをつくった竹鶴政孝の生涯 再読『ヒゲのウヰスキー誕生す』

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 先ごろ、イギリスからの独立の可否を問う住民投票があり、独立反対票が賛成票を上回り、イギリスにとどまることになったスコットランドは、スコッチウイスキーの生産で知られる地域である。18世紀までは、スコットランドの地酒に過ぎなかったウイスキーが、イギリスだけでなく全世界で飲まれるようになるのは、本格的な酒税導入の結果だと川又一英著『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社)の中に書かれている。

 この本は、日本で初めて国産ウイスキーをつくった竹鶴政孝(1894~1879)の生涯を描いた伝記である。かつて北海道に住んだことがあり、余市ニッカウヰスキーの蒸留所も見学した。

 竹鶴の名前はそのころから知っていてこの本も1980年に発売された当時に読んでいるが、スコットランドの独立問題があったので、再読した。 竹鶴は1918年(大正7)6月、神戸から日本を出発、アメリカ・サンフランシスコを経て同年12月スコットランドに渡り、ウイスキー製造の勉強をして1920年11月に帰国する。その際伴っていたのは現地で知り合い結婚したリタ夫人だった。

 竹鶴は広島県竹原市の造り酒屋の家に生まれ、旧制の大阪高等工業(現在の大阪大工学部)を出た後、大阪市の摂津酒精醸造所に入社、ウイスキーの製造技術を学ぶため、スコットランドに留学する。グラスゴーの王立工科大学応用化学科に聴講生として席を置きながら、各地のウイスキー工場で研修を受け、スコッチウイスキーの製造全般について学んだ。

 この留学期間中、竹鶴は14歳の少年に「ジュージュツ」(実際は柔道)を教え、少年の家に通っているうちに姉のリタと親しくなり、2人は双方の親や親族の反対を乗り越えて結婚したのだ。

 竹鶴が戻った当時の日本は不況が深刻化し、摂津酒精醸造所でウイスキー製造の計画は進まず、やむなく竹鶴は同社を退社、1年後、鳥井信治郎の誘いでサントリーの前身、寿屋に入り、山崎工場(大阪府島本町)で日本初のウイスキー生産に従事、1924年には「サントリー白札」が発売になる。

 10年働いた竹鶴は寿屋を退社し、支援者とともに余市に大日本果汁を創業、当初はリンゴジュースの製造販売を中心に業務を続けたあと、ウイスキー製造にも着手し、1940年には「ニッカウヰスキー」を発売する。 ウイスキーについてスコットランドで学び、日本で初めて本格的ウイスキーを製造した竹鶴は「ウイスキーの父」とも言われ、1979年(昭和54)、85歳で死去した。

 彼を支えたリタ夫人は、第一次大戦で婚約者を亡くしたあとに竹鶴と知り合い、東洋の遠い国に移り住み、竹鶴より18年前の1961年(昭和36)64歳でこの世を去る。リタは「政孝さん」(マサタカサン)を縮め、竹鶴を「マッサン」と呼んだという。

 冒頭に書いたように、スコッチウイスキーは、当初スコットランドの地酒だった。スコットランドは1707年、イングランドと合併、1713年に麦芽税が適用され、18世紀末には蒸留酒に対しても税金が課せられた。誇り高きスコットランド人は反英感情を強め、産地のハイランド地方の住民は様々な手段でウイスキーを密造した。

 一方、大手製造業者は麦芽だけでなく生麦を使ったり、蒸留器を改良したりして増産体制を図り、その後グレインウイスキーモルトウイスキーブレンドして飲みやすいブレンデッド・ウイスキーが発売され、ウイスキーは世界に広まった。

 9月末からNHKの朝の連続ドラマ「マッサン」が始まる。竹鶴夫妻をモデルにしたフィクションだという。現在放映中の「花子とアン」は、『赤毛のアン』の翻訳者、村岡花子(1893~1968)の生涯をモデルにしたものだ。

 村岡花子竹鶴政孝も、分野こそ違っても同時代に生きた(花子が1歳上)魅力ある人物だった。生前「自分からウイスキーを取ったら何も残らない」と語っていたという竹鶴は、いまリタ夫人とともに余市の街を見下ろす美薗の丘に眠っている。