小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1050 ベスト1の小説「ことり」 メルヘンながら現実社会を投影

画像 ことしも残すところ1カ月余になった。種々雑多な本を読んだ中で、私にとってこれまでのベスト1は、小川洋子著「ことり」である。同じ作者の作品で映画にもなった「博士の愛した数式」も心に残る1冊だったが、それと並ぶ上質な小説だと思う。

 朝日新聞の文芸批評には「小さな人生に寄り添う」という見出しでこの作品が紹介されたが、メルヘン的でもあり、あるいは孤独感が漂う現実の社会を投影したような、不思議な作品だ。

 小説は「小鳥の小父さん」と呼ばれるゲストハウス管理人の物語だ。冒頭、主人公の小鳥小父さんが死後数日して発見される話から始まり、彼がなぜ小鳥小父さんという呼び方をされるようになるか続いていく。

 大学教授の父親は家では無口で、夕食後には庭に作った小さな小屋に閉じこもる。 小鳥の小父さんには小鳥の鳴き声に似た「ポーポー語」という独自の言葉しか話さない兄がいた。兄弟を愛した母は早くに亡くなり、父親も海で事故死する。

 兄と2人きりになった小父さんはゲストハウスの管理人をしながら、家に閉じこもる兄の面倒をみる。その兄が亡くなった後、彼は近くの幼稚園の小鳥小屋の掃除を引き受け、いつしか小鳥の小父さんと呼ばれるようになる。

 小鳥小屋の掃除のほか小父さんは、図書館で小鳥の本を借りて読むのが趣味だ。頭痛の湿布を買うために通い続ける薬局もある。図書館の若い司書に思いを寄せたこともある。公園で知り合った怪しげな鈴虫老人も出てくる。

 淡々とした日常の中で幼稚園の少女へのわいせつ事件が起き、小父さんにも疑いの目が向けられ、小鳥小屋の掃除も断られる。犯人が逮捕され、嫌疑は晴れるが、小屋掃除の楽しみは戻らない。

 傷ついたメジロの幼鳥との出会い、メジロの鳴き比べをする怪しげなグループの出現などを経て、だれにも看取られることなく死んでいくというラストシーンを迎える。しかし、その死は疲れを癒す休息のようなものであり、小父さんにとって悲劇ではない。

 先日、千葉大大学院看護学研究科が開いた「あなたは最期までどう生きたいですか」というシンポジウムをのぞいた。講師の一人、東京・世田谷区立特別養護老人ホーム芦花ホームの配置医、石飛幸三さんは「一人暮らしの80歳の母親の死を看取ることができなかった。

 ただ母親の死に顔は穏やかだった。どう受け止めればいいのか」という質問に対し「あなたのお母さんは一人でもさびしくなかったのだろう。数日して娘が来てくれたことがうれしかったに違いない。マスコミは孤独死という言葉を連発するが、安易に使うべきではない」と答えていた。

 小川も朝日新聞のインタビューに「小父さんの死は社会的に見ると、孤独死で、政治的には防がないといけないことだろうけど、文学的にはかわいそうとは限らない。孤独を恐れる必要はないし、あえて避けなくともいいと思う」と述べている。

 世の中には小鳥小父さんのように、ひっそりと小さな人生を送っている人は少なくないのではないか。この作品は、そんな人たちの思いを代弁したものと受け止めることができる。