小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1017 9月の庭にて 休息に憧れる季節

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 朝、犬の散歩をしていてマロニエトチノキ)の実がたくさん落ちているのを見つけた。実が落ち、落葉も始まっている。この季節のわが家周辺の風物詩といっていい。 例年なら秋の訪れを知るのはコオロギの鳴き声からなのだが、ことしは残暑が長く、夜のとばりが下りても、なかなか季節の便りを聞くことができなかった。

 昨日は涼しくなったせいか、暗くなってようやくコオロギも鳴き出した。 わが家の庭には、柿の木とミカンと柚子がそれぞれ植えてある。秋は果物の季節でもあるが、ことしは不作の年らしくミカンと柚子は一つも実がないし、柿も少しだけしか実をつけていない。それぞれの木は葉だけはよく茂っていて、日除けの役割は果たしてくれた。

 ヘルマンヘッセは「9月」という詩で夏の終わりを迎えた庭のことを書いている。

《庭は悲しんでいる 冷たく花々の中へ雨が降る。 夏はひそかに身震いする 己の終末を迎えて   黄金色の葉がひとひらひとひら 高いニセアカシアの木からしたたり落ちる。 夏はいぶかしげに力なく微笑む 死んでゆく庭の夢の中で。 まだしばらくバラのところに 夏は立ちどまっているが 休息にあこがれている。 ゆっくりと夏は閉じる 大きな くたびれた目を。》(岡田朝雄訳)  

 この夏は異常な暑さだった。そして私も、果樹たちも休息にあこがれている。日除けに植えたゴーヤは、一つだけ小さな実をつけている。ゴーヤだけが夏の終わりを悲しんでいるのかもしれない。 (写真は、拾ってきたトチノミ)

 🔔私も休息し、旅をします。ブログも暫し休みます。