小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

709 「ローマへの道」紀行(1) テレジアとチトーが愛したブレッド湖

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 1年に1回だけ、まだ見ぬ世界遺産や豊かな自然を求めて海外の旅をしている。9月下旬から10月初めにかけて10年前まで内戦が続いた旧ユーゴを歩き、いくつか心に残る体験をした。

 最終目的地は「すべての道はローマに通ず」といわれるローマだった。スロベニアクロアチア(このほかオーストリアボスニア・ヘルツェゴビナの一部を通過した)、南イタリアナポリを経てローマを目指す道程は記憶に残ることが多かった。何回かに分けてその印象を記してみる。

 旧ユーゴを率いたヨシップ・ブロズ・チトー(1892-1980)は、カリスマ性を持った政治家だった。ヒトラーナチスドイツへの抵抗運動を指導し、戦後はソ連スターリンと一線を画し、共産主義者ながら独自の路線を歩み、多民族国家・ユーゴを統一国家として牽引した。

 彼の死後、旧ユーゴは、民族間の対立が表面化し、激しい内戦のあと6つの国に分かれた。美しい自然と文化遺産があるこの地域は、クロアチアを中心に一時期日本人の観光客が多数詰めかける人気スポットになったという。関係者よると、いまそのブームは去り、以前ほど日本人の姿は多くはないが、一度は訪ねてみたい地域として依然人気があるそうだ。

 成田からドイツのフランクフルトまでルフトハンザのエアバスに乗り、さらに飛行機を乗り継ぎ、オーストリアの第二都市、グラーツで降りた。ここからバスに乗って最初の目的地である220キロ先のスロベニアのブレッド市に向かう。

 この町はスイス、イタリアから続くユリアン・アルプスの一角にあり、スロベニアを代表する観光地といわれ「アルプスの瞳」と呼ばれるブレッド湖とブレッド城がある。ブレッドのホテルに着いたのは現地時間午後9時半(日本時間午前4時半)で、早朝の6時に家を出てからから乗り継ぎを含めて22時間半が経過していた。

 湖と古城は、ヨーロッパでは珍しくない。秋田の田沢湖や北海道の支笏湖洞爺湖然別湖と日本にだって美しい湖は少なくない。だからブレッドについてはあまり期待していなかった。だが、そんな思いは、吹き飛ぶくらいブレッド湖(周囲6キロ)と湖の島にある聖マリア教会、そして湖を見下ろす高台にあるブレッド城は、「かわいらしい」という表現がぴったりの「おとぎ話」の世界のような魅力を持っていた。

 島に渡るには船頭さんの手こぎボートで渡るが、その船頭の「俺に任せろ」と言わんばかりの表情がいい。画像ボートに乗り、島に渡る。99段の階段を上り、聖マリア教会を見る。この教会で結婚式を挙げる新郎は、花嫁を抱きかかえて階段を上り切ると、幸せになるという言い伝えがあると聞いた。

 それは一生をかける大仕事ではある。力のない男はどうすればいいのか。 湖岸には冒頭に書いたチトーの別荘があった。チトーはブレッドを愛し、夫人とともにこの別荘に来て、周辺の散歩を楽しんだという。現在は高級ホテル・ビラブレッドとして利用されているが、政治家として権謀術数の限りを尽くしてをソ連との距離を保ったチトーの心身は、ブレッドの美しい自然に癒されたのだろうと思う。

 チトーはリュブリャナ(現在のスロベニアの首都)の病院で1980年に死亡している。87歳だった。リュブリャナブレッド湖は35キロしか離れていない。病身のチトーがこの湖にやってきて、美しい自然に別れを告げる機会があったのだろうか。

 この湖は、中世から20世紀前半まで中欧に君臨したハプスブルク家が所有していたという。湖岸にある村に女帝・マリア・テレジア(1717~80)が別荘を建て、ブレッド湖のボート操縦の許可を村の男に与えたことから、それ以来、ボートの漕ぎ手はこの村の出身者に限られているのだそうだ。その意味でもハプスブルク家は、いまもこの地域に影響を与え続けていると言える。

 ブレッド城にあるレストランの昼食には「マス」のカラ揚げが出てきた。この湖で取れたものらしい。ブレッド湖の西30キロには、ボーヒン湖というもう一つの美しい湖があり、ここで取れたマスは「黄金のマス」といわれるそうだが、ブレッド湖産らしいマスもけっこううまかった。

 マリア・テレジアとチトーもこの味を楽しんだに違いない。画像 18世紀のマリア・テレジア、20世紀のチトーという傑出した人物が愛したブレッドは、21世紀初め「スロベニアクロアチアブーム」に乗り、日本からの観光客が相次いだ。その波が去ったとはいえ、私たちを含め日本人の姿は少なくなかった。

 ここはだれにでも愛される、包み込みたくなるような雰囲気を持った場所なのだ。