小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

604 もう一度は? アカデミー賞の「ハート・ロッカー」

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  もう一度見たい映画や読んでみたいと思う小説がある。では、きょうアカデミー賞の作品賞を受賞したキャスリン・ビグロー監督の「ハート・ロッカー」(行きたくない場所、棺桶を指す)というアメリカ映画はどうか。

 「ノー」である。それは、この映画自体がノーという意味ではない。緊張を強いられる映画から伝わる、イラク戦争の現実に「拒絶反応」が出たからだ。

 戦争を題材にした映画で記憶にあるのは、「地獄の黙示録」(フランシス・フォード・コッポラ監督)である。ベトナム戦争を描いたこの映画を見ようと映画館に足を運び、後でテレビでも鑑賞した。時間を置けば、「ハート・ロッカー」もテレビやDVDで見ようという気分になるかもしれない。しかし、いまのところはノーなのだ。

  ベトナム戦争後も世界の警察官を自認する米国は、湾岸戦争に続いてイラクやアフガンでも戦争を続けている。爆弾テロ、自爆テロが日常化しているバグダッドに駐留する米軍の爆発物処理班の3人の兵士の死と隣り合わせの日常を描いたのが、この映画だ。イラクやアフガンでは、この映画のように爆弾テロは珍しくない。

  そんな爆弾処理兵士たちの日常はつらい。明日への希望などない。こうした極度の緊張状態に、麻薬のようにのめり込んでいく兵士がこの映画で描かれている。その姿は決して異端ではなく、現地では平均像に近いのかもしれない。

  映画は、イラクで戦争をする米国の視点で描かれている。そのために登場するバクダッドの市民たちは、みな米国の「敵」のように映されている。爆弾の処理を家の中から、ビルの屋上から、物陰から見守る姿は「敵」としか見えない。(DVD売りの少年との交流だけが明るい材料だ)それは、いつになっても平和を取り戻せず、泥沼状態にあるイラクにしてしまったのは「お前たちだ」といわんばかりのように、見える。

 「もう一度はノー」と書いたが、「娯楽作品」としてみれば映画自体の出来は手に汗をかくほど臨場感があって悪くない。だが、現実にイラクやアフガンで米軍は泥沼の戦いを続けていることを思うと、娯楽と単純には割り切ることはできない。米国の若者は、この映画を見てどんな感想を持つのだろう。

  映画のプロデューサーがアカデミー会員にこの映画への投票を呼びかけて批判を受けたり、アカデミー賞の本命視された「アバター」の監督、ジェームス・キャメロン監督が、ビグロー監督の元の夫だったり、多くの話題を集めた映画だ。結果的にアカデミー賞で多くの部門の賞をを取ったが、なぜか日本で上映している映画館は少ない。昨年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」のように、これから多くの映画館で上映されることになるのだろう。

  今回のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞に、和歌山県太地町のイルカ漁を記録した米国の「ザ・コーヴ」という作品が選ばれた。町民に断らずに「隠し撮り」を中心にした映画だそうだ。そんな映画の作り方もあるのかと感心した。米国は多様な文化を持っている国なのだろう。