小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

546 知床旅情とともに 森繁久弥さんの死

  札幌で生活をしたことがある。最初が1990年初めの1年半で、次が10年後の2000年代初めの2年間だ。合わせても3年半という短い期間だが「第二の故郷」と自称するほど北海道が好きになった。

  北海道を離れる人と一緒に同僚たちが肩を組みながら「知床旅情」を歌うのがかつての職場の慣わしで、私も間違いなく送られる人として2回、この儀式を経験した。送る側としての回数を入れると、あきるほど歌ったことになる。

  加藤登紀子さんの歌で有名になったが、この歌の作詞、作曲は10日に老衰で亡くなった森繁久弥森繁久彌)さんだ。昔からこの歌が好きだったので、送別会の儀式に違和感はなかった。札幌を離れてもう7年。東京に戻ってからはこの歌を歌うことはなかった。森繁さんの訃報を聞いて、急に聞きたくなった。インターネットのユーチューブでは加藤さんらの歌を聞くことができる。それだけではなく、多くの歌手が歌っていることを知った。いろいろな歌い方があるが、やはり森繁節と加藤さんの歌が一番耳にいい。

  私が所属した会社にはかつて森繁さんの実の兄がいた。菅沼俊哉というスポーツライターのはしりだった。本業のかたわらNHKの大学箱根駅伝やマラソンの解説をしていた。風貌、話し方が弟の森繁さんにそっくりだった。森繁さんの舞台「屋根の上のバイオリ弾き」の舞台を見たとき、それを実感した。

  ミュージカルに興味はなかった。ただ、ロングランを続ける舞台はどんな魅力があるのだろうと、野次馬的な感覚でチケットを買い、帝劇に足を運んだ。観客は女性が圧倒的に多かった。ミュージカルは森繁さんには似合わないと思った。だが、舞台が進行しいつしか森繁さんの世界に引きずり込まれていた。間の取り方が絶妙で、肩がこらない。それでいて、楽しいのだった。

  森繁さんのテレビでは、向田邦子が脚本を担当した「だいこんの花」が好きだった。元巡洋艦長の父(森繁)と適齢期の一人息子(竹脇無我)の2人が中心のホームドラマだった。父はだいこんの花(本当にきれいです)のように清楚で美しかった亡き妻を忘れることができず、息子の方も「結婚するならだいこんの花のような女性を」と言っている。そんな2人の掛け合いが面白かった。

  その竹脇は後年うつ病になり、森繁さんたちの励ましで立ち直る。息子のような存在の竹脇の回復を見ての大往生だけに、思い残すことはなかったのかもしれない。