小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

379 人を支える存在に

 最近、懐かしい顔に出会った。大谷藤郎さん、84歳だ。ハンセン病(かつて、らいと呼ばれた)隔離政策の誤りを指摘した信念の人だ。旧厚生省の官僚OB(医系技官トップの医務局長で退官)ながら、退官後「らいは治る。患者を隔離しておくらい予防法は人権侵害であり、廃止すべきだ」と訴え続け、1996年にらい予防法が廃止された。その後提訴された熊本地裁ハンセン病国家賠償請求訴訟でも証人として出廷し「らい予防法は人権侵害」という証言をしたことで知られる。裁判は原告が勝訴し、当時の小泉首相が控訴を断念した。

  大谷さんとは、厚生省の局長時代に接点があった。20数年ぶりに再会したのはハンセン病制圧に功績があった団体、個人を表彰するダミアン・ダットン賞の授賞式の会場だった。ハンセン病は皮膚と神経に感染する慢性の細菌性疾患で、現代はプロミンを中心とした多剤併用療法により、確実に治る病気だ。しかし患者は、日本だけでなく、世界各地で今もなお差別や偏見(スティグマ)にさらされている。不明にして当時の私は、大谷さんがこの病気の患者のために懸命に働いていることを知らなかった。その後、熊本地裁の証言報道を見て「あの大谷さんだったのか」と思ったものだ。

  それはさておき、大谷さんは旧厚生省の医系キャリアとして異色の存在だ。京大医学部を出たあと、郷里の滋賀県の保健所で働き、さらに京都府衛生部に移り、厚生技官になるのは35歳の時だった。大谷さんは、京大医学専門部在学中、1人の先生と出会った。大正時代から京大でハンセン病を専門に担当した小笠原登博士(1888年-1970年)だ。小笠原博士は、「らいは恐ろしい伝染病ではない」という学問的信念から、ハンセン病の外来患者に対しマスクも手袋もせずに診察した。

 それを目の当たりにして、若い大谷さんは「こういう医者になりたい」と誓ったそうだ。しかし大谷さんの人生の師である小笠原博士は、戦前の学会で異端児扱いされた。その後の歴史を見れば博士の主張が正しかったことが分かるが、ハンセン病患者は長い間、根強い偏見と差別にさらされたのだった。

  厚生省で大谷さんはハンセン病患者がいる国立療養所を管轄する国立療養所課長を務めた。患者が陳情に来ると、課長室に招き茶碗でお茶を出した。それまでは別室で応接しお茶は紙コップを使う。患者が帰ると部屋は消毒し、紙コップは焼却処理したというから、大谷さんの行動は厚生省関係者には衝撃だっただろう。

  大谷さんは、厚生省退官後、国際医療福祉大学総長や高松宮記念ハンセン病資料館館長などを務めた。その信念は「人間はみな平等であり、健常者も障害を持つ人も互いに人間として尊重しあう共に生きる社会を目指すことだ」という。こうした信念に基づいてらい予防法の廃止にも立ち上がった。大谷さんは「日本のハンセン病問題はまだ終わっていない。差別や社会的偏見を受けずに、生きることができるようになって初めてこの問題が解決したことになるのです」と、現状をこう指摘する。

  現役時代、そしていまも大谷さんの表情は穏やかだ。しかし、熊本ハンセン病国家賠償請求訴訟の証言記録を読むと、良心、信念を大事にする大谷さんの生き方が伝わってくる。

  私は昨年暮れ、千葉大の「いのちを考える」講座を聞いた。講師は仙台市NPO在宅緩和デーケアセンター「虹」を運営している中山康子さんで、450人の学生を前に「人という文字はカタカナのノの字に短い棒が支えるように付いている。皆さんも、この文字の短い棒のように、患者を支える存在になってください」と説いた。中山さんの話を聞いて大谷さんや小笠原博士のように、弱い立場の人の側に立つことの大切さを考えた。