小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

354 詩的な旅エッセー 伊集院静「旅行鞄にはなびら」

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 風邪が長引き、一日中横になっている。そんな時に手に取ったのがこの本だ。ヨーロッパを中心に、花を求め絵画を鑑賞する旅をテーマにした伊集院静のエッセー集「旅行鞄にはなびら」だ。 短い25本のエッセーはどれもが詩的であり、随所で小説家の鋭い観察力を味わうことができる。頁をめくっていくと、熱でぼんやりした頭でもエッセーの中に出てくる光景が想像できて、いい時間の過ごし方ができた。

 車窓から、道端にぽつんと咲く一本の花木に目が止まった時、「おや、こんな土地に梅の花が……」と思わず声を出した。(ゴッホとアーモンド) こんな書き出しから、短いエッセーの一つひとつに、伊集院の花と絵画への思いが凝縮されている。 伊集院が毎年利用しているパリのホテルの美しい女性マネージャー、セシルとルーヴル美術館に行く「すずらんの微笑」がいい。

 ある年、伊集院にすずらんの花をプレゼントしてくれたか彼女がホテルをやめることになったといい伊集院をルーヴルに誘う。 伊集院は絵の説明役をしながらルーヴルを回っていると、一つの絵を見て彼女は、口数の少ない父親の部屋に複製画が飾られていたと思い出話をする。ルーヴルを出て、食事の時に彼女は「若い時に父がこのルーヴルにやってきて、この絵の前に立っていたのじゃないかしらと思ったの」「私…若者だった父のうしろ姿を見たの…」と話しながら、涙を流した。すずらんの花とセシルの思い出をつづったこのエッセーを読むと、だれでもがルーヴルに行きたくなるはずだ。

 若者に対する小説家の目は確かであり、観察力が鋭いと感じたのは次の2つのエッセーだ。 ローカル線で電車の旅をしていて、窓際のシートに座った少年なり少女が1人、外の風景を眺めている姿を見つけると、なんだかこころがなごんでくる。若く、美しい瞳である。その瞳が、ふとした時に、流れる景色を見つめていないと感じることがある。

 それは何かを想っている目の表情だ。何かを想い、何かを探している表情である。若いということは何かを探し、追い求めることができる年頃だ。(純白の丘) 冬のパリも情緒がある。バスターミナルに1人の少女がバイオリンケースを手に立っているシーンに遭遇したことがあった。半コートのボタンを襟元までかけマフラーでしっかりと首元を巻き、冬帽子に手袋。少女の気配を感じるのは大きな瞳だけだったが、真っ直ぐに立って一点を見つめている彼女のまなざしが凛として、しっかりした頑張り屋の少女の性格が伝わってきた。(夕暮れのパリで)

 このエッセーで紹介される画家たちは多い。モネ、ミロ、ゴッホシャルダンゴヤグレコクールベルノワール、バジール、ベラスケス、ダ・ヴィンチ藤田嗣治ピサロマチスシャガールピカソ、ターナ、ロラン、マルケ……。絵画ファンには、ため息が出るような画家たちの連続だ。

 花を見て、好きな絵を鑑賞するという旅の本に伊集院は「旅行鞄にはなびら」という題名をつけた。大きな旅行鞄で旅行をしていた父と野の花を愛した母を思ってのことだ。最後のエッセー「父の旅行鞄」には、伊集院のいまの現実も書かれている。「私は父のように、多くの娘、息子はない。だから旅の土産品も買うことはない。誰に旅の出来事を語るか。読者の方に語るしかない」と。