小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

285 モノクロ・影絵の世界へのいざない「般若心経」写真展を観る

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 一般的な日本人は、信仰心が薄いのではないか。ただし初詣や受験の際には、にわかに信仰心が出るのか寺や神社に詣でるし、旧い神社仏閣が好きな人も多い。しかし、どうみても私を含めて基本的にキリスト教イスラム教が普及した諸国に比較すれば、ふだんの信仰心は薄い。「般若心経」と題した写真家、市毛實さんの写真展をのぞいていまさらながらにわが身の信仰心のなさに気が付いた。

 般若心経は言うまでもなく、仏典の一つである。広辞苑によると、漢訳には諸訳があるが、最も流布しているのは西遊記で知られ、三蔵法師ともいわれた唐の玄奘(げんじょう)が訳したものに2文字を付加した262字から成り、般若経の心髄を簡潔に説いているという。

  般若心経に初めて出会ったのは、海外で船に乗った時だ。それは太平洋戦争で日本の敗戦を決定づける戦いがあった現在のソロモン諸島国(ガダルカナル)でのできごとだった。遺族たちがこの島を訪れ、海上で戦死者の慰霊祭をした。その際、部外者の私にも般若心経を書いたコピーが渡され、海に向かって他の人たちと般若心経を唱え、お祈りをしたのである。

  以来、般若心経は心に残っていた。だが、写真家である友人の市毛さんから「般若心経」の写真展を開くという便りをもらった時は正直驚いた。

  過日、表参道の会場を訪れ、納得がいった。市毛さんの写真は、モノクロで統一された影絵のような世界であり、心が落ち着く。中国のシルクロードや日本の外房海岸で撮影した独特の写真からは、市毛さんの感性が伝わる。他の写真展で見られるような、個々の作品のキャプションはない。

  薄日の中に浮かびあがる仏舎利、つぼみから開いたばかりのハスの花、海に漂着した一本の枯れ枝、海に沈む小さな太陽。どの作品も光と影を巧みに配置し、私の心に「静かに生きなさい」と訴えかけてくる。

  市毛さんと話をした。一緒に聞いた記憶力のいい若い友人からその内容をメモでもらった。彼はモノクロとアナログカメラにこだわるという。そんな話を聞いてパソコンや携帯電話と「にらめっこ」を続ける多くの日本人とはかけ離れているが、いい生き方だと思った。

  市毛さんは、現在60歳。写真家としてこだわってきたのは、いまだれもが使っているはずのデジカメを相手にしないことだ。彼はまず「私はパソコン、携帯、デジカメみんな使えないのです」と言って、私たちを驚かせた。次いでデジタルとアナログの違いをこう説明した。

 「デジタルの世界は『1』から始まり『0』の概念(何もないところかを想像する余地)がないのです。一方、アナログは『0』を持っています。写真は鑑賞する人に想像させることが大切です。だから、私はフィルム(アナログ)のカメラにこだわっているのです」

 「写真は想像させる世界」ということについては、以下のような説明をしてくれた。

 「写真を撮影したときは一瞬です。その一瞬を持ち帰ったものを鑑賞者があとで観ます。しかし、そのときには、既にそこに写っている世界は消えているのです」

  だから、彼は作品にはキャプションはつけず、観る人の想像力にまかせるのだという。モノクロは、想像力を高めるのには極めて力を発揮するようだ。モノクロにこだわる理由はそれだけでない。「カラーでは自分で焼けないが、モノクロなら自分で暗室作業ができるのです」。

  市毛さんの撮影に対するこだわりはプロだと思う。彼は頭の中でどう撮影するかと決めたら、シャッターを押すのは早い。シャッターを押すまでにかかる時間はほんの数秒。時間をかけると作りこみすぎてしまうというのだ。そんな市毛さんはいまの心境をこんなふうに話した。「被写体の許可をもらわないとシャッターは押せない。生物以外の被写体でもあいさつします。その言葉として自然に般若心経がでてくるようになったのです」。悟りを開いたみたいですねと、問いかけると「いいえ」と笑っていた。

  市毛さんの話を聞いて一つの道を貫いた人の言葉だと感じた。ある語学学校で隣合わせた彼が新しい境地を開いたことがうらやましいと思い、同時にその成熟ぶりに感心した。彼のように深い洞察力は、私にはない。しかも信仰心のない私だが、個展を見終えてから同行した若い友人の将来を思い、市毛さんのようにいい雰囲気を持った人間に成長し、誇るべき自分の世界を持ってほしいと念じた。

  実は北京在住の友人がいつのころからか般若心経について研究し、本にするため書き続けている。時には一時帰国し、国会図書館で調べ物をする。一途な性格の持ち主だ。この友人が市毛さんの写真に出会ったら、どんな反応を示すか楽しみである。

  市毛さんの写真展 6月17日(火)-22日(日)東京・表参道「アートスペース・リビーナで。(東京メトロ表参道A3出口、交番横のビル4F)12時から19時まで。最終日は17時まで。

  追記。私はうっかり忘れていたが、友人から大事なことが抜けていると指摘された。それは市毛さんの言葉にあった「あの世」「この世」そして「その世」である。市毛さんによれば、写真の世界は「想像の世界」なのであり「その世」の表現なのだという。なるほど、般若心経をテーマにした写真展だけのことはある。含蓄ある言葉の意味をじっくりと考えてみたいと思う。(6月24日)