小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2101 医師受難の時代に「ひとすじの道」への思い

           

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 医師の受難が続いている。コロナ禍で多くの医師たちが多忙を極めている中、埼玉県ふじみ野市で猟銃を持った男が在宅訪問診療の医師を射殺した事件が起きた。大阪では12月、北区の心療内科クリニックで患者の男がガソリンを使って放火、院長ら25人が殺害されるという悲惨な事件があった。意識不明になった男もその後死亡し、詳しい事件の解明はできなくなった。

 不条理といっていい出来事だ。2つの事件に共通するのは、昔読んだイギリスの作家、イギリスの作家で医師A・J・クローニン(1896~1981)の「ひとすじの道」という作品に出てくる医師像だ。

 以前、拙ブログに書いたこの作品のことを要約する。

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《「ひとすじの道」は、クローニンの自伝的長編小説『人生の途上にて』の中の2つをまとめたものだ。若い主人公がイギリスの田舎町の町医者の所に雇われ、苦労しながら成長する。町医者も主人公も私は好きになった。町医者は酒が好きでけっこういい加減だし、主人公はひた向きすぎる。それが失敗にもつながるのだが、それはそれでいい。医者の理想は何だろうか。出発点はいろいろだろう。親が医院を営んでいるので、その子供も跡を継ごうとするかもしれない。大事な人を早くに失い、失意の中で少しでも命を救おうと思ったのかもしれない。頭がよかったので、たまたま医学部を受けたら合格した人もいるだろう。

 スタートはどんなでもいいと思う。だが、大事なことは、医は仁術であり、ヒューマニズムが第一なのだ。中国やミャンマーでは、いま多くの命を守ろうと医師たちが苦闘の日々を送っている。(注・この年、ミャンマーではサイクロン、中国では四川大地震が起き、多くの犠牲者が出た)

 医者はともすれば、患者を見下す。それは、勘違いなのだ。そうした思い違いをしている医者はクローニンの作品を読むべきだと思う。

 少年時代、私はある盲腸の手術で入院した。そのときに出会った医者は恐い顔をして、口も悪い。私は家族が来ると「あのくそ医者!○○太郎」と医者の名前を呼び捨てにして悪口を言った。彼は苗字よりも、名前で「○○太郎先生」と呼ばれ、評判は悪くはなかった。口は悪くても実は心は優しく、クローニンの小説の町医者によく似ている人だった。》

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 各種の報道を見ると、今回の事件で命を失ったふじみ野市の医師鈴木純一さん(44)も大阪の医師西沢弘太郎さん(49)も「ひとすじの道」の町医者、そして私が世話になった〇〇太郎先生と同じ道を歩んだ人ではなかったかと思う。理不尽、不条理、無慈悲……。2人に掛ける適切な言葉は見当たらない。

 コロナ禍の時代に起きた陰惨な事件。コロナ禍によって社会が病んでいるという時代背景があるとはいえ、やりきれないと思うのは私だけではないだろう。一方で、こんな時でも私の近所では医者の豪邸が作られている。この人は何を考えて医療行為をしているのだろうか。責めるわけではないが、疑問が尽きない。

2100 朝もやが描き出したモノトーンの世界 自然の変化と付き合う

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「夜霧」や「朝靄」は、情緒的な響きがあるが、日常の会話で「霧」と「靄」(もや)を使い分ける人はほとんどいないだろう。物の本を調べると、気象用語でははっきり区分けする基準があるのだという。この基準に当てはめると、今朝、わが家の周辺で発生した自然現象は「靄」だった。ラジオ体操が始まる直前に漂い始めた靄は、2時間ほどで消えた。

 霧と靄は、大気中の水蒸気が微小な水滴がとなって浮遊して視界が悪くなるもので、同じ現象だ。しかし気象用語では水平視程が1キロ未満、つまり1キロ以上の遠くの物が見分けられなくなる状態が霧で、靄は水平視程が1キロ以上の状態を指す。近くしか見えないのが霧で遠くまで見えるのが靄といっていいのだろう。このほか、空気中の水滴やその他の粒子によって視界が悪い状態のことを霞というが、俳句では霞は春、霧は秋の季語であり、靄は季語にはなっていない。

 冒頭に書いた通り、わが家周辺では今朝、水蒸気が浮遊して視界が悪くなる現象があった。そう濃くはなく1キロ先が見えなくなることもなかったから、朝靄といえる。近くに調整池があり、この周囲では季節に関係なく霧や靄が発生する。体操の後、ここに行ってみると風情ある風景になっていた。ほぼモノトーンに近い世界。ゴッホならこの風景をどう描くのだろうかと、ふと思ったりした。

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 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)は、外を歩くことが好きだったそうだ。戦後、岩手で山小屋生活をしたくらいだから、外歩きは苦にならなかったようだ。足が速く、一人歩きだと2、3里(約7・8~11・7キロ)歩くのにそう時間がかからない。「自由自在に歩きたいから多くの場合は一人で歩く。風のやうに歩いたり、流れる埃のやうに歩いたり、熊のやうに歩いたり、時には鶴のやうに歩いたりする。或る時はまるで自分自身の中に没入した状態で歩き、或時は又下界に一々魂を奪はれながら歩く」(『日本詩人全集9 高村光太郎』新潮社・エッセイ「生きた言葉」)というのが光太郎の歩くスタイルだ。

 かつては私も歩くのが速かった。しかし加齢とともに速度は遅くなり、昨今は自然が描き出す雄大な風景を楽しみながら歩くことが多くなった。光太郎的な「風のように、流れる埃のように、熊のように、鶴のように」とは行かないが、のんびり、ゆっくり自然の変化と付き合いながら歩くのも、なかなかいい。1月も下旬。光の春がそこまでやってきている。

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写真

1~3 調整池周辺の朝もや 4~6 ラジオ体操会場周辺

2099 強敵と戦う武器は 小学生にも大きな影響のオミクロン株

         

            (満開になった遊歩道の紅梅)

「疾病というものは侮り難い強敵なのだ。恐るべき武器をもっているのだ。われわれがどれほど強固な武装をしたところで、なかなか歯がたつものではない。われわれがどれほど防衛の態勢を整えたところで、その攻撃にかかっては耐えうるものでないのである」

 これは、1722年にイギリスで出版されたダニエル・デフォー作『ペスト』(平井正穂訳・中公文庫)という作品に書かれている一節だ。「疾病」には「ペスト」というルビが振られているが、今世界中で猛威を振るっている「コロナ」と置き換えることもできる。300年の長い時代を経ても感染症の脅威は変わらない。

 作品の終盤では、ペストが終息した後のイギリスの実態についても触れている。疾病がやんだのだから、いがみ合いやののしり合うことがきれいにやんだらよかったのだが、そうはならなかったというのだ。「疾病流行前、わが国の平和を乱していた元凶こそは、まさしくこのはてしなきいがみ合いの根性であった」とデフォーは書いている。

 コロナ禍は現在、オミクロン株によって世界的な大流行が続いている。既に560万人が死亡しているのだから、歴史に残る恐るべき疾病といえる。新型コロナワクチン接種パスポートの義務化をめぐってフランス、ドイツ、ベルギー、チェコ、スイス、オーストリアなどヨーロッパ諸国で反対する市民が抗議のデモをしているニュースが流れている。各国政府はコロナの防疫措置としてワクチン接種を推進しようとしている。これに対し「自由への侵害」と受け止める市民が少なくないのだろう。ワクチンを打つべきか否かをめぐって、わが国でも議論が続いている。「接種は強制ではない」がわが国の基本で、ヨーロッパのような接種パスポート義務化が提案されることはないだろうが、決して他人事とは思えない。

 近所に小学校がある。全校児童数は約670人だ。このうち昨日は93人が休んだそうだ。今朝、登校する児童の姿はまばらに見えたから、休む子どもはもっと増えるだろう。児童自身が陽性になったり、家族が濃厚接触者として会社を休んだり、形態は様々だが、この小学校は1学年当たり3学級(1学級は30数人)が基本だから、1つの学年が休んだ計算になる。登校しても授業は午前11時までというから、オミクロン株の影響は大きい。一昨年の全国臨時休校という悪夢が蘇ることがないことを願うばかりだ。

『ペスト』には、「私としては、あの過ぎさった日の惨禍を忘れることなく、互いに寛容と親切をこととして、疾病終息後のわれわれの行動を律すべきであった、と何としても思わざるをえないのである」という作者自身の思いも書かれている。この指摘は現代に生きる私たちにも通じるものであり、心すべきことではないだろうか。

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2098 『ラルゴ』・幅広くゆるやかに ピアニスト反田さんの願い

    

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『神よ、ポーランドをお守りください』。ポーランドの人々は幾世紀にもわたって、このような祈りを教会でキリストにささげたに違いない。同じ言葉を私たち日本人は、神にささげたことがあるのだろうか。それは別にしてポーランドはこれまで大国によって侵略され、国民は長い間苦汁をなめ続けた。20世紀。ナチスドイツの侵攻とユダヤ人の虐殺、ソ連支配下の1党独裁・監視社会、民主化への激しい闘争は近現代史に色濃く残っている。それだけに、ショパン(1810~1849)作曲の「聖歌」として、敬虔な祈りを込めた『ラルゴ』は、聴く者の心に響く。2021年のショパン国際コンクール。2位になった反田(そりた)恭平さんは3次予選の中でこの曲を弾き、大きな反響を呼んだ。

 手元にある青澤唯夫著『ショパン――優雅なる激情』(芸術現代社)の作品紹介には、この曲が以下のように出ている。

《『ラルゴ変ホ長調』(遺作)》1937年作とする説が有力だが、疑念もなくはない。「パリ、7月6日」と記されているのに、1837年の7月初めにはショパンはパリにいなかったからである。そうするとショパンがパリにいた1834年あたりが可能性として浮かびあがってくる。作品28のプレリュードのために試作され、のちに破棄されたものではないかという推測もある。コラールふうの荘重な曲で、作品28の20のハ短調とよく似た曲想をもっている(以下、略》

 最近の研究によると、ポーランドでは1825年頃からミサの最後に「神よ、ポーランドをお守りください」を歌う習慣があり、少年だったショパンはその旋律を覚えていて、後にパリでこの曲を作曲したといわれる。楽譜が発見されたのは20世紀に入ってからの1938年で、同年出版されたが、ほとんど知られていないという。

 今回のショパンコンクールに出場した反田さん(ポーランドショパン国立音楽大学に留学中)ほか何人かの日本人を追ったNHKの特集番組を見た。この中で反田さんは、この曲との出会いとコンクールで演奏曲目に加えた経緯を話していた。

ポーランドの聖十字架教会の前で座ったベンチのボタンを押したら、この曲が流れてきたのです。へえーこんな素敵な曲があるんだ。留学しなければ知らなかったし、出会わなかったでしょう。(コンクールで演奏曲目に入れたのは)コロナでパンデミックになっちゃったし、いろいろな感情を世の中の人たちがこの1年持っていたので、この時期にぴったりの作品だと思ったのです」 

 こんな出会いをした反田さんは、第3次予選の『英雄』など4つの演奏曲目の3番目に『ラルゴ』を加えた。そしてファイナルに進み、『ピアノ協奏曲第1番』を演奏し第2位になった。

『神よ、地球をお守りください』。新型コロナが依然猛威を振るう世界。このような祈りは世界でささげられているに違いない。「ラルゴ」は音楽用語の速度記号の一つ。イタリア語で「幅広くゆるやかに」という意味があるそうだ。これこそ、コロナ禍の現代に求められている精神と言えるように思える。ラルゴが使われている曲としては、ヘンデル『オンブラマイフ』、ヴィヴァルディ・ヴァイオリン奏曲『四季』の「冬」第2楽章、ドヴォルザーク交響曲第9番新世界より』の第2楽章――がよく知られている。

2097 「マイクロムーン」を見る 地球から最も遠い満月の朝

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     (小学校の赤と緑のシンボルタワーの間に浮かぶ満月)

 今朝の夜明け前、太平洋側の各地で西の空に輝く満月を見た人は多いのではないでしょうか。橙色の小ぶりな月。それはことし一番小さい満月で、「マイクロムーン」と呼ぶそうです。初めて聞く言葉です。控えめな印象がありますね。とはいえ、この月は朝早く出勤する人や散歩をする人を慰めたのではないでしょうか。

 国立天文台によりますと、ことし地球から最も近い満月(スーパームーン)は7月14日で、今回の満月は地球から最も遠い位置のため7月14日に比べると、「視直径」(天体の大きさを表す場合、実際の大きさより角度を用いて見かけの大きさを表すことがあり、見かけの直径を視直径と呼ぶ)が約11パーセント小さくなるそうです。私が見た満月は朝7時前でしたが、実際に地球から最も遠い満月になったのは今朝の8時48分だったそうです。

スーパームーン」は新聞やテレビのニュースにもなり、たまに耳にすることがありますが、「マイクロムーン」という言葉を私はこれまで知りませんでした。今朝も風があって寒い朝でした。それでも眩い月の光に向かって歩いていますと、丸い円に吸い込まれそうになる感覚があり、体が軽くなり、寒さも忘れることができました。

 ベートーヴェンは、1801年に作曲したピアノソナタ第14番を『幻想曲風ソナタ』と名付けました。しかし現在では『月光ソナタ』という通称でよく知られています。これはドイツの音楽評論家、詩人ルートヴィヒ・レルシュタープ(1799~1860)の言葉が由来といわれています。

 レルシュタープはこの曲の第1楽章を聴いて、「ルツェルン湖(スイス中央に位置し、スイス4番目に大きい湖。周辺にはスイス建国にまつわるウイリアム・テルの伝説がある)の月光の波に揺らぐ小舟のようだ」と話したというのです。レルシュタープは音楽評論の分野で大きな影響力を持っていたため、この後、この曲が『月光ソナタ』と呼ばれるようになり、現在もそのまま使われているというのです。

「湖の月光に揺らぐ小舟」という表現で、ある風景を思い出しました。ノルウェーでソグネ・フィヨルドに次いで2番目に大きいハダンゲル・フィヨルド(ホルダラン県)を訪れた際に見た小舟が波に揺らいでいた光景(下の写真)です。朝霧のフィヨルドに浮かぶ小舟は、妖精の乗り物のように見えました。この写真を見ながら『月光ソナタ』を聴きますと、レルシュタープの感性が私にも伝わってくるような気がするのです。

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2096 朝焼け広がる厳寒の空 阪神淡路大震災から27年

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  今朝は朝焼けが見えた。「日の出の頃、東の空が薄紅色や燃えるような色に染まることがある。これは大気の状態によって太陽光が散乱する現象であって夏にのみ起こるわけではないが、特に夏の朝焼けは荘厳であり、夏の季語とされる。天気の下り坂の前兆といわれている」と『角川俳句大歳時記』に出ている通り、厳寒の頃の朝焼けはそう多くはない。近所のラジオ体操会場でも東の空が美しく輝いていた。今朝は阪神淡路大震災から27年になる。

 普段、私たちの多くは太陽を背に向けてラジオ体操をする。ちょうど日の出の頃と重なり、眩しいためだ。今朝もいつものような位置で体操を始めた。だが、正面のビルの窓ガラスが赤く反射しており、後ろを振り返ると、公園の樹木の向こうに朝焼けが広がっていた。そこで私は体の向きを東に変え、朝焼けを見ながら体を動かした。ほかの人たちも私にならい、同様の動きをした。

 南太平洋のトンガで海底火山の大噴火があり、日本各地で津波が観測された。気象庁は当初、日本への影響はないと発表していたが、現実には津波が観測されたため各地に警報を出した。予測が困難だったわけで、自然界の動きは現代科学でも解明できない部分が少なくない。阪神淡路大震災前、神戸では大地震はないという説を信じる人が多く、行政も含めて警戒感は薄かったという。

「朝焼けは天気が下り坂になる前兆」ともいわれる。俗説とはいえ、夏に朝焼けを見ると、天気が下り坂になった経験がかなりあったから、この説を信じる人は少なくないのではないか。自由律俳句の俳人種田山頭火の句にも「朝焼雨ふる大根まかう」とある。一方、天気予報では私の住む千葉市周辺は好天がしばらく続くそうだ。冬の朝焼けは、天気が下り坂になる前兆とはいえないのかもしれない。

 山頭火には「朝焼のうつくしさおわかれする」という句もある。夏の朝焼けの短さ、寂しさを思った句だろうか。「私はその日の生活にも困ってゐる。食ふや食はずで昨日今日を送り迎へてゐる」(「述懐」)と書く山頭火。「朝焼夕焼食べるものがない」という、切実感あふれる句も残している。

 あかあかと朝焼けにけりひんがしの山並の天(あめ)朝焼けにけり 斎藤茂吉

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2095 遥かな空に描かれた文字は 武満徹『翼』を聴く

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 現代音楽の作曲家、武満徹(1930~1996)は、自身が作詞したポピュラー曲も少なくない。中でもよく知られているのは『翼』と『小さな空』だ。元同僚は、今年の年賀状にこの『翼』のことを書いてきた。この曲は「遥かな空に描く『自由』という字を」で終わっている。コロナ禍で閉塞感に覆われた現代。武満の曲は大雪や吹き荒れる北風に負けないよう、私たちの背中を押しくれるように響くのだ。

 元同僚は、様々なことに詳しい物知りだ。記者活動も尋常ではなく、彼の多岐にわたる情報にはいつも驚かされたものだ。当然、クラッシック音楽にも造詣が深い。ある時、彼と喫茶店に入り、コーヒーを飲みながらテレビの特集番組で流れた音楽について、「誰の曲だったっけ」といいながら、イントロを口ずさんだことがある。すると彼は、すぐに「それはチャイコフスキーの弦楽セレナードですよ」(弦楽のためのセレナード ハ長調、作品48)と教えてくれた。

 彼の賀状には「とてもシンプルできれいな曲です。特に最後の《『自由』という字を》にぐっと来ます。自由…。久しく忘れていました」という言葉の後に『翼』の詞が書かれていた。

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 風よ 雲よ 陽光(ひかり)よ 風をはこぶ翼 遥かな空に描く「希望」という字を ひとは夢み 旅して いつか空を飛ぶ 風よ 雲よ 陽光(ひかり)よ 夢をはこぶ翼 遥かな空に描く「自由」という字を

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 元同僚が書くように、コロナ禍によってさまざまな自由が制限されている。それだけに「希望」と「自由」は、今一番求められている言葉のように思える。世界を見ると、自由の対義語がまかり通る国も少なくない。独裁国家は民衆の人権を抑圧し続けている。

 戦争は平和なり 自由は隷従なり 無知は力なり

 全体主義国家の不条理と怖さを描いたジョージ・オーウェルの『一九八四年』(高橋和久訳・ハヤカワ文庫)には、この国を牛耳る党の3つのスローガンが出てくる。「戦争こそが平和をもたらすためにいいことであり、自由がないこと、無知であることも美徳の社会」がビッグ・ブラザー率いる全体主義国家なのだ。これと類似した国は、21世紀の現代にも存在する。組織的に歴史も改ざんする。わが日本の役所も重要書類や統計を改ざんしているのを見ると、『一九八四年』の独裁国家とは無縁ではないように思えてならない。

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 今朝、ユーチューブで聴いた『翼』の曲を思い出しながら散歩した。途中、空を見上げると、東の空に帯状(飛行機雲か)になった雲が浮いている。陽光に照らされて赤く輝いている。これが風をはこぶ翼、夢をはこぶ翼によって描かれた文字なのだろうかと思う。鮮やかな赤い色は、見る位置が変わるとグレーへと変化した。遥かな空。明日はどんな風景を見せてくれるのか。

 

関連ブログ

1926 学べき悔恨の歴史 秘密文書に見るユダヤ人問題

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2094 「思索」の信越の旅 紀行文を読む楽しみ

     

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 英国人女性、イザベラ・バードは文明開化期といわれた1878(明治11)年横浜に上陸、6月から9月にかけて北日本を旅し、さらに10月から関西を歩いた。この記録が『日本紀行』あるいは『日本奥地紀行』として今も読み継がれ、紀行文の名著になっている。コロナ禍、私は事情があって旅は控えバードの本の頁をめくり、地図を見ながら想像の旅を続けている。そんな折、知人から『信越紀行』と題する旅の記録が届いた。それは幕末期のこの地域の動きを考える、思索の旅の記録でもあった。

 知人は私が所属する句会の主宰者で、旅の記録には必ずその地で浮かんだ俳句も残されている。今度の記録にも幾つかの名句が書かれていた。旅好きな知人は海外から最近は国内に目を向け山陰、九州、北陸、東北と続けてきた。コロナ禍があって思うような旅はできない中、第5波が落ち着いた昨年11月中旬、自宅のある我孫子市から新潟・長野方面へと足を伸ばした。2泊3日の日程で、回ったのは長岡~直江津上越高田~妙高高原~小布施~松代~長野だった。

 訪ねた主な場所は「悠久山公園」「河井継之助記念館」「山本五十六記念館」(以上長岡市)、「旧第3師団長官舎」「高田城」「小林古径記念美術館」「春日山城」(同・上越市高田)、「岩松院」「北斎館」(同・小布施町)「象山記念館・象山神社」「松代城」(同・長野市松代町)などである。戊辰戦争当時の諸藩の動きに関心を持つ知人は、特に戊辰戦争で官軍と戦った長岡藩の河井継之助ゆかりの地に立ち、河井について以下のように記した。

《彼が時代を先取りした改革者であり、財政の立て直しや数多くの実績で人々の信頼を得ており、それゆえ藩論が割れずに突き進むことになったのはよくわかる」「長岡にとって本当にそれが良かったのか、やむをえなかったのか。実に悩ましい疑問ではあるが、古来散り急いだ者への哀悼、彼らの醇乎の精神に対する賛美は日本人には殊のほか強い。戊辰期の長岡は会津若松と並びそのような特別な街、旧城下と言っていいだろう》

 この旅で知人は現役時代の仕事を思い出し、さらに早逝した同期入社の友人、世話になった先輩に思いを馳せる。小布施から長野に向かう長野電鉄は途中で須坂を通る。知人の同期入社の友人は須坂の出身だった。やや我が強く、理屈っぽく、よく言えば義を論じ正論をかざす。長野の県民性そのものの人だったようだ。知人は書いている。

《他を容れること少なく、ゆえに容れられることもすくなかったといようか。こと志と違って何かと挫折もあったことだろう。終生独身でさほど昇進することもなく50歳前後に病没したから、多分この地の御先祖の墓に入ったはずである。狷介孤高の男。世渡り下手とか不器用とか一本気が過ぎるとか、いろいろな評価や評判はあっただろうが、私には彼の無念が何となく分かるように思われ、それだけに懐かしくもあるのだ。そうだ!彼の兄からの香典返しも林檎であった……》

 この節に続いて、心にしみる句が出てくる。人生にはいろいろな出会いがある。早逝した人ほど、忘れがたいのだ。

 早逝の友の故山の林檎園

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 知人が旅した地域のいくつかを私も歩いたことがある。その一つに長岡があった。田中角栄元首相が裁かれたロッキード事件、丸紅ルート(1983年10月12日)。田中元首相に東京地裁は懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡したが、この判決を前に私が所属していた共同通信社会部は加盟新聞社向けに連載記事『角栄の秋』を送信した。私を含む5人の記者が担当し、手分けして新潟の現地取材も試みた。私はこの年の8月、長岡や柏崎を回り、長めの企画記事を数本執筆した。私が取材に入ったのは8月初めで長岡は花火大会。どこの宿も満杯で、取材のあと新潟まで行き、ホテル探しをしたことが忘れられない。

 この3年前の1980年6月の衆参ダブル選挙も担当した。社会部遊軍記者だった私は自民党を離党して立候補、新潟3区でトップ当選した角栄氏を追って3区内を回り、ある日の朝は角栄氏の実家(刈羽郡西山町、現在は柏崎市西山町)にまで行った。私がタクシーを降りると、元首相秘書の早坂茂三氏が下駄履きスタイルでやってきた。

「どこの記者だ」

共同通信社会部です」

「わざわざ東京から、親父をいじめるための材料探しに来たのか。帰れ、帰れ!」

「そんなつもりはないですよ」

 こんなやりとりをした。それを座敷から見ていた元首相がダミ声で「おい、早坂。東京からわざわざ来てくれたというのだから、上がってもらえ」と言った。早坂氏は渋々私を家の中に案内した。私が上がり込んで角栄氏の近くに行くと元首相は朝から酒を飲んでいるのか、赤い顔で汗をかきながら支援者に頼まれたと思える色紙を書いていた。他社の記者はいないからいろいろ聞いたはずだ。だが、詳しいことは忘れてしまった。ただ、なかなか味わいある字を書くものだと感心したことだけは記憶にある。

(そのころの私は、どんな人に会っても卑屈にならず、対等に話をする傲慢不遜な記者だったはずだが、元首相のオーラに接し、そうした傲慢さは消えていたようだ)

 角栄氏は上告審が審理途中の1993年12月16日、肺炎のため75歳で死去。私はこのころ既に社会部を離れ、元首相死去に関する後輩たちの記事を読みながら西山町の朝のことを思い出していた。

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 コロナ禍が第6波の様相を呈しており、知人の旅も一時休止を余儀なくされるだろう。再開はいつになるかは分からない。だが、知人の国内の旅はまだ続き、それを記録することによって旅の記憶もより深まるはずだと、私は思う。

2093 経験を軽く見た行動が背景に? 第6波に入ったコロナ禍

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      (近所の公園の池で見かけた白鳥)

 コロナ禍が第6波に突入してしまったことは間違いない。年末、次第に増え始めた感染者は新年を迎えて激増の一途をたどり、8、9両日とも新規感染者は8千人を超えた。前の週と比較して倍どころか10倍という数字を聞くと、心穏やかではない。「民衆や政府は歴史から何かを学んだことはない」という、弁証法で知られるドイツの哲学者ヘーゲルの言葉が適切かどうかは分からない。だが、新型コロナという性悪ウイルスが第6波まで繰り返して流行しているという事実から、歴史や経験を軽く見た行動が第6波まで惹起させてしまった背景にあると思わざるを得ないのだ。

 ヘーゲルの言葉はこうだ。「経験と歴史の教えるところこそまさに、人民や政府がかつて歴史から何ものも学ばなかったということであり、また歴史からひっぱり出されるような教訓に従って行動したということもなかったということそのことなのである」(長谷川宏訳『歴史哲学講義』・岩波文庫)。ヘーゲルは、それぞれの時代はそれぞれに固有の条件の下に独自の状況を形成するため、他の時代の教訓は役に立たない、と付け加えているのだが、私を含め歴史から何かを学んでいると信じている人間にとって、手厳しい考え方といえる。

 日本では昨年秋、第5波が急速に収まり、このブログでも2021年10月13日に《「よく分からないから不気味」コロナ感染急減の背景は》という記事を掲載した。その中で政府分科会の尾身茂会長が感染者急減の理由について記者会見で言及したことを紹介した。①連休やお盆休みといった感染拡大につながる要素が集中する時期が過ぎた②医療が危機的状況にあることが広まり、国民の間で危機感が共有された③感染が拡大しやすい夜間の繁華街の人出が減少した④ワクチンの接種が進み、若い世代の感染も減少した⑤気温や雨など天候の影響があったのではないか―の5つである。

 年初めの急増(9日の新規感染者は8249人)は、この要素の裏返しのように思えてならない。①年末年始で都市と地方の人の流れが加速した②第5波の収まりで国民の危機感が急速に薄れた③繁華街の夜間の人出が戻り、飲食店での多人数での飲食も増えた④ワクチンの接種は進んだが、時間の経過とともに感染予防につながる中和抗体が減少した⑤気温の低下とともに室内の換気対策がおろそかになった――である。このほか米軍の感染対策の杜撰さによって、沖縄はじめ米軍基地周辺での感染急増につながってしまった。

 第6波の大きな要素ともいえるオミクロン株は、これまでの状況から重症になる例はデルタ株に比べると少ないとみられている。先日、オンラインで開催された放送大学主催の「コロナ禍の現状と今後の見通し」と題した講演会を聴いた。講師の国立国際医療研究センター病院の杉山温人病院長は、デルタ株と比較してオミクロン株の性質について触れ「感染力は強い一方で重症度は(「多分」という注意書きながら)低い。ワクチンの効果は下がるため3回目のブースター接種が必要、重症化予防薬ロナプリーブは推奨しない」と語った。また感染力が強いため「医療従事者の感染、濃厚接触や扱いで医療提供能力が低下する可能性が高く、医療ひっ迫を招く」と警告した。沖縄ではすでにこの兆候が出ていると報道されている。症状は軽くとも、感染者数が増えれば、それだけ重症者も増えることは言うまでもない。オミクロン株は、油断できない強敵なのだ。

 福沢諭吉は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざを、肯定的にとらえた。本来は「苦しいことや辛いことも過ぎてしまえば忘れる」ことのたとえであり、「苦しい時に人から受けた恩も忘れてしまい、ありがたく思わなくなること」という意味もある。だが、諭吉は「艱難辛苦も過ぎてしまえば何ともない。貧乏は苦しいに違いないが、その貧乏が過ぎ去った後で昔の貧苦を思い出して何が苦しいか、かえって面白いくらいだ」(『福翁自伝』)と述べている。コロナ禍についても、諭吉のような心境でとらえる日が来ることを願うばかりである。

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       (飛び立っ白鳥)

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      (遊歩道に沿って流れる小川にはカワセミがやってくる)

2092 4年ぶりの天からの便り 通学路に広がる樹氷

 

     

 雪国に住む人たちにとって雪は珍しくないし、降り方によっては災害を引き起こす厄介な存在だ。かつて札幌での生活を体験し、雪は鬱陶しいと思うことが多かった。だが、雪がほとんど降らない地域に住んでいると、雪国の生活が懐かしくなったりする。昨日、南岸低気圧の影響で首都圏に雪が降った。久しぶりに見る白銀の世界は新鮮に映った。

 測ってみると、積雪は約10センチだった。これは2018年1月22日以来であり、この地域では「大雪」といっていい。日記をみると、それ以前は2014年2月8日から9日にかけての大雪で、私の自宅のある千葉市の観測地点で1966年の統計開始以来最大の32センチの積雪(わが家では35センチ)を記録した。その前は2013年1月14日の10センチが記憶に残る積雪だった。

「雪は天から送られた手紙である」。雪の研究で知られる物理学者、中谷宇吉郎の言葉だ。コロナ禍の第6波が濃厚となった現在、天からの便りは何を語ろうとしているのかと、思う。沖縄をはじめ在日米軍基地周辺で新型コロナ・オミクロン株による感染が急拡大し、沖縄、山口、広島でまん延防止等重点措置が適用されることになった。米軍基地内は日米地位協定といういわば治外法権の世界。在日米軍の杜撰な感染対策が結果的に基地外に感染が爆発的に拡大することにつながってしまった。したたかなウイルスとの闘いは、まだ終わりが見えない。

 そんな中での大雪。そして、今朝は氷点下3度を記録し、街路樹のけやきに樹氷ができた。樹氷は木の枝あるいは木全体に氷が付着したものの総称だ。透明な粗氷となったり、霧の小滴が真っ白に凍ったりする霧氷もある。子どもたちの通学路に展開した樹氷は降った雪が枝に付着し、そのまま凍って朝を迎えた。凍った道をスキップしている子、雪を握って雪合戦をする子、3人肩を並べて寒そうに歩く低学年の子らもいる。目の不自由な子は、お母さんと手をつないで歩いている。樹氷は手を広げるような姿で、これらの雪景色を楽しむ子どもたちを見送っている。

 散歩コースの調整池も、今朝はいつもと様子が違っていた。冬枯れの森は白く輝き、池の水も陽光が反射してキラキラ光っている。その光景に魅せられたのか、三脚を据えて写真撮影を頑張る高齢の人もいた。登校する子どもたちの元気な声が聞こえてくる。1月7日、季節は小寒。これから大寒を経て立春へと向かう。ことしは希望の春になるのだろうか。そうなってほしいと願うのは、私だけではないはずだ。

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