小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2096 朝焼け広がる厳寒の空 阪神淡路大震災から27年

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  今朝は朝焼けが見えた。「日の出の頃、東の空が薄紅色や燃えるような色に染まることがある。これは大気の状態によって太陽光が散乱する現象であって夏にのみ起こるわけではないが、特に夏の朝焼けは荘厳であり、夏の季語とされる。天気の下り坂の前兆といわれている」と『角川俳句大歳時記』に出ている通り、厳寒の頃の朝焼けはそう多くはない。近所のラジオ体操会場でも東の空が美しく輝いていた。今朝は阪神淡路大震災から27年になる。

 普段、私たちの多くは太陽を背に向けてラジオ体操をする。ちょうど日の出の頃と重なり、眩しいためだ。今朝もいつものような位置で体操を始めた。だが、正面のビルの窓ガラスが赤く反射しており、後ろを振り返ると、公園の樹木の向こうに朝焼けが広がっていた。そこで私は体の向きを東に変え、朝焼けを見ながら体を動かした。ほかの人たちも私にならい、同様の動きをした。

 南太平洋のトンガで海底火山の大噴火があり、日本各地で津波が観測された。気象庁は当初、日本への影響はないと発表していたが、現実には津波が観測されたため各地に警報を出した。予測が困難だったわけで、自然界の動きは現代科学でも解明できない部分が少なくない。阪神淡路大震災前、神戸では大地震はないという説を信じる人が多く、行政も含めて警戒感は薄かったという。

「朝焼けは天気が下り坂になる前兆」ともいわれる。俗説とはいえ、夏に朝焼けを見ると、天気が下り坂になった経験がかなりあったから、この説を信じる人は少なくないのではないか。自由律俳句の俳人種田山頭火の句にも「朝焼雨ふる大根まかう」とある。一方、天気予報では私の住む千葉市周辺は好天がしばらく続くそうだ。冬の朝焼けは、天気が下り坂になる前兆とはいえないのかもしれない。

 山頭火には「朝焼のうつくしさおわかれする」という句もある。夏の朝焼けの短さ、寂しさを思った句だろうか。「私はその日の生活にも困ってゐる。食ふや食はずで昨日今日を送り迎へてゐる」(「述懐」)と書く山頭火。「朝焼夕焼食べるものがない」という、切実感あふれる句も残している。

 あかあかと朝焼けにけりひんがしの山並の天(あめ)朝焼けにけり 斎藤茂吉

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2095 遥かな空に描かれた文字は 武満徹『翼』を聴く

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 現代音楽の作曲家、武満徹(1930~1996)は、自身が作詞したポピュラー曲も少なくない。中でもよく知られているのは『翼』と『小さな空』だ。元同僚は、今年の年賀状にこの『翼』のことを書いてきた。この曲は「遥かな空に描く『自由』という字を」で終わっている。コロナ禍で閉塞感に覆われた現代。武満の曲は大雪や吹き荒れる北風に負けないよう、私たちの背中を押しくれるように響くのだ。

 元同僚は、様々なことに詳しい物知りだ。記者活動も尋常ではなく、彼の多岐にわたる情報にはいつも驚かされたものだ。当然、クラッシック音楽にも造詣が深い。ある時、彼と喫茶店に入り、コーヒーを飲みながらテレビの特集番組で流れた音楽について、「誰の曲だったっけ」といいながら、イントロを口ずさんだことがある。すると彼は、すぐに「それはチャイコフスキーの弦楽セレナードですよ」(弦楽のためのセレナード ハ長調、作品48)と教えてくれた。

 彼の賀状には「とてもシンプルできれいな曲です。特に最後の《『自由』という字を》にぐっと来ます。自由…。久しく忘れていました」という言葉の後に『翼』の詞が書かれていた。

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 風よ 雲よ 陽光(ひかり)よ 風をはこぶ翼 遥かな空に描く「希望」という字を ひとは夢み 旅して いつか空を飛ぶ 風よ 雲よ 陽光(ひかり)よ 夢をはこぶ翼 遥かな空に描く「自由」という字を

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 元同僚が書くように、コロナ禍によってさまざまな自由が制限されている。それだけに「希望」と「自由」は、今一番求められている言葉のように思える。世界を見ると、自由の対義語がまかり通る国も少なくない。独裁国家は民衆の人権を抑圧し続けている。

 戦争は平和なり 自由は隷従なり 無知は力なり

 全体主義国家の不条理と怖さを描いたジョージ・オーウェルの『一九八四年』(高橋和久訳・ハヤカワ文庫)には、この国を牛耳る党の3つのスローガンが出てくる。「戦争こそが平和をもたらすためにいいことであり、自由がないこと、無知であることも美徳の社会」がビッグ・ブラザー率いる全体主義国家なのだ。これと類似した国は、21世紀の現代にも存在する。組織的に歴史も改ざんする。わが日本の役所も重要書類や統計を改ざんしているのを見ると、『一九八四年』の独裁国家とは無縁ではないように思えてならない。

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 今朝、ユーチューブで聴いた『翼』の曲を思い出しながら散歩した。途中、空を見上げると、東の空に帯状(飛行機雲か)になった雲が浮いている。陽光に照らされて赤く輝いている。これが風をはこぶ翼、夢をはこぶ翼によって描かれた文字なのだろうかと思う。鮮やかな赤い色は、見る位置が変わるとグレーへと変化した。遥かな空。明日はどんな風景を見せてくれるのか。

 

関連ブログ

1926 学べき悔恨の歴史 秘密文書に見るユダヤ人問題

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2094 「思索」の信越の旅 紀行文を読む楽しみ

     

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 英国人女性、イザベラ・バードは文明開化期といわれた1878(明治11)年横浜に上陸、6月から9月にかけて北日本を旅し、さらに10月から関西を歩いた。この記録が『日本紀行』あるいは『日本奥地紀行』として今も読み継がれ、紀行文の名著になっている。コロナ禍、私は事情があって旅は控えバードの本の頁をめくり、地図を見ながら想像の旅を続けている。そんな折、知人から『信越紀行』と題する旅の記録が届いた。それは幕末期のこの地域の動きを考える、思索の旅の記録でもあった。

 知人は私が所属する句会の主宰者で、旅の記録には必ずその地で浮かんだ俳句も残されている。今度の記録にも幾つかの名句が書かれていた。旅好きな知人は海外から最近は国内に目を向け山陰、九州、北陸、東北と続けてきた。コロナ禍があって思うような旅はできない中、第5波が落ち着いた昨年11月中旬、自宅のある我孫子市から新潟・長野方面へと足を伸ばした。2泊3日の日程で、回ったのは長岡~直江津上越高田~妙高高原~小布施~松代~長野だった。

 訪ねた主な場所は「悠久山公園」「河井継之助記念館」「山本五十六記念館」(以上長岡市)、「旧第3師団長官舎」「高田城」「小林古径記念美術館」「春日山城」(同・上越市高田)、「岩松院」「北斎館」(同・小布施町)「象山記念館・象山神社」「松代城」(同・長野市松代町)などである。戊辰戦争当時の諸藩の動きに関心を持つ知人は、特に戊辰戦争で官軍と戦った長岡藩の河井継之助ゆかりの地に立ち、河井について以下のように記した。

《彼が時代を先取りした改革者であり、財政の立て直しや数多くの実績で人々の信頼を得ており、それゆえ藩論が割れずに突き進むことになったのはよくわかる」「長岡にとって本当にそれが良かったのか、やむをえなかったのか。実に悩ましい疑問ではあるが、古来散り急いだ者への哀悼、彼らの醇乎の精神に対する賛美は日本人には殊のほか強い。戊辰期の長岡は会津若松と並びそのような特別な街、旧城下と言っていいだろう》

 この旅で知人は現役時代の仕事を思い出し、さらに早逝した同期入社の友人、世話になった先輩に思いを馳せる。小布施から長野に向かう長野電鉄は途中で須坂を通る。知人の同期入社の友人は須坂の出身だった。やや我が強く、理屈っぽく、よく言えば義を論じ正論をかざす。長野の県民性そのものの人だったようだ。知人は書いている。

《他を容れること少なく、ゆえに容れられることもすくなかったといようか。こと志と違って何かと挫折もあったことだろう。終生独身でさほど昇進することもなく50歳前後に病没したから、多分この地の御先祖の墓に入ったはずである。狷介孤高の男。世渡り下手とか不器用とか一本気が過ぎるとか、いろいろな評価や評判はあっただろうが、私には彼の無念が何となく分かるように思われ、それだけに懐かしくもあるのだ。そうだ!彼の兄からの香典返しも林檎であった……》

 この節に続いて、心にしみる句が出てくる。人生にはいろいろな出会いがある。早逝した人ほど、忘れがたいのだ。

 早逝の友の故山の林檎園

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 知人が旅した地域のいくつかを私も歩いたことがある。その一つに長岡があった。田中角栄元首相が裁かれたロッキード事件、丸紅ルート(1983年10月12日)。田中元首相に東京地裁は懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡したが、この判決を前に私が所属していた共同通信社会部は加盟新聞社向けに連載記事『角栄の秋』を送信した。私を含む5人の記者が担当し、手分けして新潟の現地取材も試みた。私はこの年の8月、長岡や柏崎を回り、長めの企画記事を数本執筆した。私が取材に入ったのは8月初めで長岡は花火大会。どこの宿も満杯で、取材のあと新潟まで行き、ホテル探しをしたことが忘れられない。

 この3年前の1980年6月の衆参ダブル選挙も担当した。社会部遊軍記者だった私は自民党を離党して立候補、新潟3区でトップ当選した角栄氏を追って3区内を回り、ある日の朝は角栄氏の実家(刈羽郡西山町、現在は柏崎市西山町)にまで行った。私がタクシーを降りると、元首相秘書の早坂茂三氏が下駄履きスタイルでやってきた。

「どこの記者だ」

共同通信社会部です」

「わざわざ東京から、親父をいじめるための材料探しに来たのか。帰れ、帰れ!」

「そんなつもりはないですよ」

 こんなやりとりをした。それを座敷から見ていた元首相がダミ声で「おい、早坂。東京からわざわざ来てくれたというのだから、上がってもらえ」と言った。早坂氏は渋々私を家の中に案内した。私が上がり込んで角栄氏の近くに行くと元首相は朝から酒を飲んでいるのか、赤い顔で汗をかきながら支援者に頼まれたと思える色紙を書いていた。他社の記者はいないからいろいろ聞いたはずだ。だが、詳しいことは忘れてしまった。ただ、なかなか味わいある字を書くものだと感心したことだけは記憶にある。

(そのころの私は、どんな人に会っても卑屈にならず、対等に話をする傲慢不遜な記者だったはずだが、元首相のオーラに接し、そうした傲慢さは消えていたようだ)

 角栄氏は上告審が審理途中の1993年12月16日、肺炎のため75歳で死去。私はこのころ既に社会部を離れ、元首相死去に関する後輩たちの記事を読みながら西山町の朝のことを思い出していた。

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 コロナ禍が第6波の様相を呈しており、知人の旅も一時休止を余儀なくされるだろう。再開はいつになるかは分からない。だが、知人の国内の旅はまだ続き、それを記録することによって旅の記憶もより深まるはずだと、私は思う。

2093 経験を軽く見た行動が背景に? 第6波に入ったコロナ禍

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      (近所の公園の池で見かけた白鳥)

 コロナ禍が第6波に突入してしまったことは間違いない。年末、次第に増え始めた感染者は新年を迎えて激増の一途をたどり、8、9両日とも新規感染者は8千人を超えた。前の週と比較して倍どころか10倍という数字を聞くと、心穏やかではない。「民衆や政府は歴史から何かを学んだことはない」という、弁証法で知られるドイツの哲学者ヘーゲルの言葉が適切かどうかは分からない。だが、新型コロナという性悪ウイルスが第6波まで繰り返して流行しているという事実から、歴史や経験を軽く見た行動が第6波まで惹起させてしまった背景にあると思わざるを得ないのだ。

 ヘーゲルの言葉はこうだ。「経験と歴史の教えるところこそまさに、人民や政府がかつて歴史から何ものも学ばなかったということであり、また歴史からひっぱり出されるような教訓に従って行動したということもなかったということそのことなのである」(長谷川宏訳『歴史哲学講義』・岩波文庫)。ヘーゲルは、それぞれの時代はそれぞれに固有の条件の下に独自の状況を形成するため、他の時代の教訓は役に立たない、と付け加えているのだが、私を含め歴史から何かを学んでいると信じている人間にとって、手厳しい考え方といえる。

 日本では昨年秋、第5波が急速に収まり、このブログでも2021年10月13日に《「よく分からないから不気味」コロナ感染急減の背景は》という記事を掲載した。その中で政府分科会の尾身茂会長が感染者急減の理由について記者会見で言及したことを紹介した。①連休やお盆休みといった感染拡大につながる要素が集中する時期が過ぎた②医療が危機的状況にあることが広まり、国民の間で危機感が共有された③感染が拡大しやすい夜間の繁華街の人出が減少した④ワクチンの接種が進み、若い世代の感染も減少した⑤気温や雨など天候の影響があったのではないか―の5つである。

 年初めの急増(9日の新規感染者は8249人)は、この要素の裏返しのように思えてならない。①年末年始で都市と地方の人の流れが加速した②第5波の収まりで国民の危機感が急速に薄れた③繁華街の夜間の人出が戻り、飲食店での多人数での飲食も増えた④ワクチンの接種は進んだが、時間の経過とともに感染予防につながる中和抗体が減少した⑤気温の低下とともに室内の換気対策がおろそかになった――である。このほか米軍の感染対策の杜撰さによって、沖縄はじめ米軍基地周辺での感染急増につながってしまった。

 第6波の大きな要素ともいえるオミクロン株は、これまでの状況から重症になる例はデルタ株に比べると少ないとみられている。先日、オンラインで開催された放送大学主催の「コロナ禍の現状と今後の見通し」と題した講演会を聴いた。講師の国立国際医療研究センター病院の杉山温人病院長は、デルタ株と比較してオミクロン株の性質について触れ「感染力は強い一方で重症度は(「多分」という注意書きながら)低い。ワクチンの効果は下がるため3回目のブースター接種が必要、重症化予防薬ロナプリーブは推奨しない」と語った。また感染力が強いため「医療従事者の感染、濃厚接触や扱いで医療提供能力が低下する可能性が高く、医療ひっ迫を招く」と警告した。沖縄ではすでにこの兆候が出ていると報道されている。症状は軽くとも、感染者数が増えれば、それだけ重症者も増えることは言うまでもない。オミクロン株は、油断できない強敵なのだ。

 福沢諭吉は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざを、肯定的にとらえた。本来は「苦しいことや辛いことも過ぎてしまえば忘れる」ことのたとえであり、「苦しい時に人から受けた恩も忘れてしまい、ありがたく思わなくなること」という意味もある。だが、諭吉は「艱難辛苦も過ぎてしまえば何ともない。貧乏は苦しいに違いないが、その貧乏が過ぎ去った後で昔の貧苦を思い出して何が苦しいか、かえって面白いくらいだ」(『福翁自伝』)と述べている。コロナ禍についても、諭吉のような心境でとらえる日が来ることを願うばかりである。

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       (飛び立っ白鳥)

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      (遊歩道に沿って流れる小川にはカワセミがやってくる)

2092 4年ぶりの天からの便り 通学路に広がる樹氷

 

     

 雪国に住む人たちにとって雪は珍しくないし、降り方によっては災害を引き起こす厄介な存在だ。かつて札幌での生活を体験し、雪は鬱陶しいと思うことが多かった。だが、雪がほとんど降らない地域に住んでいると、雪国の生活が懐かしくなったりする。昨日、南岸低気圧の影響で首都圏に雪が降った。久しぶりに見る白銀の世界は新鮮に映った。

 測ってみると、積雪は約10センチだった。これは2018年1月22日以来であり、この地域では「大雪」といっていい。日記をみると、それ以前は2014年2月8日から9日にかけての大雪で、私の自宅のある千葉市の観測地点で1966年の統計開始以来最大の32センチの積雪(わが家では35センチ)を記録した。その前は2013年1月14日の10センチが記憶に残る積雪だった。

「雪は天から送られた手紙である」。雪の研究で知られる物理学者、中谷宇吉郎の言葉だ。コロナ禍の第6波が濃厚となった現在、天からの便りは何を語ろうとしているのかと、思う。沖縄をはじめ在日米軍基地周辺で新型コロナ・オミクロン株による感染が急拡大し、沖縄、山口、広島でまん延防止等重点措置が適用されることになった。米軍基地内は日米地位協定といういわば治外法権の世界。在日米軍の杜撰な感染対策が結果的に基地外に感染が爆発的に拡大することにつながってしまった。したたかなウイルスとの闘いは、まだ終わりが見えない。

 そんな中での大雪。そして、今朝は氷点下3度を記録し、街路樹のけやきに樹氷ができた。樹氷は木の枝あるいは木全体に氷が付着したものの総称だ。透明な粗氷となったり、霧の小滴が真っ白に凍ったりする霧氷もある。子どもたちの通学路に展開した樹氷は降った雪が枝に付着し、そのまま凍って朝を迎えた。凍った道をスキップしている子、雪を握って雪合戦をする子、3人肩を並べて寒そうに歩く低学年の子らもいる。目の不自由な子は、お母さんと手をつないで歩いている。樹氷は手を広げるような姿で、これらの雪景色を楽しむ子どもたちを見送っている。

 散歩コースの調整池も、今朝はいつもと様子が違っていた。冬枯れの森は白く輝き、池の水も陽光が反射してキラキラ光っている。その光景に魅せられたのか、三脚を据えて写真撮影を頑張る高齢の人もいた。登校する子どもたちの元気な声が聞こえてくる。1月7日、季節は小寒。これから大寒を経て立春へと向かう。ことしは希望の春になるのだろうか。そうなってほしいと願うのは、私だけではないはずだ。

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2091 繰り返す負の歴史 復興ジャンボ当選というネット詐欺  

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 家族の携帯に心当たりがない相手からおかしなメールが届いた。買ったことがない『コロナ復興ジャンボ』という宝くじの3等に当選したというのだ。当選金額は何と3億5000万円と巨額である。どう見てもいたずらか、詐欺に違いない。指定されたアドレスをクリックして口座番号を教えると、巧妙な手口で大金をせしめようというのだろう。人間はさまざまな面で頭を使っているが、これは悪知恵だ。コロナ禍を利用して詐欺をする輩は少なくない。ネット全盛時代、気を付けることが増えている。以下は宝くじ当選を装った「一攫千金詐欺」(私の命名)メールの内容。

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>> 差出人: ご案内 <miden@cease-decade.com>

>> 日時: 2022年1月4日 20:16:28 JST

>> 宛先:

>> 件名: ※イベント結果※受領期限にご注意下さい

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>> 宝くじ当選金支払い証明書

>> ━━━━━━━━━━━━

>> いつもご利用ありがとうございます。

>> このたび貴方様はコロナ復興ジャンボにおきまして、見事〔3等〕3億5000万円にご当選となりました。

>> おめでとうございます!!

>> ■当選番号:3842932

>> ■当選金額:3億5000万円

>> ■送金方法:銀行振込

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 これを見て、詐欺だと思わない人はほとんどいないだろう。コロナ禍陰謀説がまことしやかに流れ、ワクチン接種も危険だから、従業員の接種を止めようとした経営者がいたことが話題になったこともある。海外では福島の原発事故は、実は事故に見せかけたイスラエルがやった秘密兵器実験だったとか、広島へ投下されたのは原爆ではなく通常爆弾だった、などという、怪しげが情報も流れているという。

 このブログで以前、フェースブックの友だちリクエストを装った詐欺の手口を紹介した。知人から、「私も同様のことがあった」と連絡があった。最近はラインのアカウントを乗っ取られ、危うく詐欺犯人に使われそうになった友人もいた。ネット社会は便利な反面、危険が伴うことを頭に入れておく必要がある。人間の歴史は犯罪の繰り返しの歴史でもある。現代の特殊詐欺も形は変えても、そうした人間の負の歴史の延長なのだ。だから捜査当局と犯罪者のいたちごっこは、終わりそうにない。

※ 宝くじを扱っているみずほ銀行でもHPでこうした詐欺に対し、注意を促している

2090 新年の九十九里を歩く 古刹には名言の碑

 

                 

         

『鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ』。仏教詩人といわれる坂村真民の詩の一節だ。コロナ禍で人の命は軽くなっている。そうした現代に生きる私たちを励ますような詩碑が古刹の一角にあった。「浜の七福神」といわれる七福神巡りのコースが千葉県の九十九里にあることを知り、出かけてみた。2日朝。最低気温は氷点下1度。ラジオ体操参加者は11人と少ない。日差しが出るのが遅くて、温暖なはずの九十九里地方も結構寒い。

 このコースがどのようないわれで設定されたかは知らない。目指した7つの寺社は清泰寺(長生村・弁財天)~真光寺(白子町・毘沙門天)~観明寺(一宮町・福禄寿)~要行寺(大網白里市・寿老人)~八坂神社(九十九里町・恵比寿)~五所神社山武市・大黒天)~四社神社(横芝光町布袋尊)。車を利用して全部回り終えるには3時間以上を要した。初めて訪れたのだが、コロナ禍の影響か、どの寺社も人影は少なかった。

 このうち五所神社は、1171年(高倉天皇当時の承安元年)創建という伝統ある神社。源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を征伐した戦い(1189・文治5)の後、凱旋途中に立ち寄り、武運長久を感謝し兵を休息させた言い伝えが、入り口の案内に書かれている。坂村の詩碑は天台宗の観明寺(創建734・天平6の古刹)に建っていた。こちらの方が五社神社よりもかなり歴史が古い。坂村は仏教詩人といわれるだけあって、詩碑は全国の他の寺にもあるそうだ。観明寺には『念ずれば花ひらく』という坂村の別の詩碑もあり、2つの詩碑は多くの寺で目にすることができるようだ。仏教詩人という分野があるのかどうかは別にして、宮沢賢治相田みつを、坂村の3人をこのような呼称をする場合もあるらしい。坂村の詩は、人生についての名言として採用されたのだろうか。

 観明寺のある一宮町には芥川龍之介が大正3年夏と5年夏の2回にわたって滞在、この町で初恋を経験した。芥川は一宮の思い出をいくつかの作品に書き、ホテル一宮館の一隅には芥川の文学碑が残っている。以前立ち寄ったことがあり、今回は割愛した。『野菊の墓』の伊藤佐千夫は五所神社のある山武市の生まれだ。同市の蓮沼では、児童文学作家の北川千代(1894~1965)が晩年を過ごした。63の作品のうち33作は蓮沼で書いたそうで、道の駅「オライ蓮沼」の一角には原稿など北川ゆかりの資料が展示されている。このコーナーの後ろでは初売りの抽選会があって、にぎやかな声が響いていた。

「ほら太東岬と銚子の犬吠埼との間に、九十九里浜っていうのがあるだろう。僕のきた村はその長い海岸のちょうどまん中ごろなんだよ。この村は海に面しているけれども、漁をしているのは浜ぞいの方の人たちだけで、あとはたいてお百姓だ。いまはもう春で、地引もそろそろはじまるから元気づくだろう」(『村のたより』から)。北川は短い文章で九十九里を的確に表した。九十九里は文学者にも愛された土地だった。

  

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          (一宮町観明寺山門)              

    

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         (観明寺の福禄寿)

    

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         (坂村真民の詩碑・観明寺)

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         (山武市五所神社の長い参道)

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    (道の駅「オライ蓮沼」に展示された北川千代ゆかりの資料)

 
 

※注『鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ』の詩の全文

 

 鳥は飛ばねばならぬ

 人は生きねばならぬ

 

 怒濤の海を

 飛びゆく鳥のように

 混沌の世を

 生きねばならぬ

 

 鳥は本能的に

 暗黒を突破すれば

 光明の島に着くことを

 知っている

 そのように人も

 一寸先は

 闇ではなく

 光であることを

 知らねばならぬ

 

 新しい年を迎えた日の朝

 わたしに与えられた命題

 鳥は飛ばねばならぬ

 人は生きねばならぬ

 

2089 蘇ったキューピット フェルメール『窓辺で手紙を読む少女』

        

 フェルメール(1632~75)の『窓辺で手紙を読む少女』(あるいは『窓辺で手紙を読む女』)の絵を見たのは2008年9月のことだった。ドイツ・ドレスデン古典巨匠絵画館(アルテ・マイスター)のオランダ絵画の部屋。小さなこの絵(83センチ×64・5センチ)はあまり目立たず、絵の前に人影はまばらだった。少女の横の壁には何もない。しかし、この絵には隠された秘密があった。それを復元し、この絵は東京都美術館で展示されるという。

 この絵はフェルメールの名作の一つとされ、ラファエロの『システィーナの聖母』、リオタールの『チョコレートの少女』などとともにアルテ・マイスターに収蔵されている作品(約780点)の中でも、特に人気が高いという。チェコの改革運動の悲劇をテーマにした春江一也の『プラハの春集英社)』の続編『ベルリンの秋』(同)にも、主人公の在プラハ日本大使館書記官がアルテ・マイスターを訪れ、『システィーナの聖母』と『窓辺で手紙を読む少女』を見る場面が描かれている。

《その絵は無造作に壁に掛けてあった。思ったより小さい絵だった。開け放たれた窓辺で、硬い表情の女が手紙を読んでいる。そばのテーブルには、あわただしく置いたのか、果物を盛った皿が傾いてリンゴがこぼれている。どんな手紙だったのだろう。恋人からの別れの手紙なのか。それとも肉親から届いた哀しい知らせだったのか。》

 実は、女性の横の壁にはキューピットが描かれていることが1979年のX線分析で発見されていた。これについて研究者は、フェルメール自身が塗りつぶし、背景に余白を作り出したのではないかと考えていたという。私が当時アルテ・マイスターで購入した図録集にも「もともと少女の頭上の白い壁のところにはキューピットが描かれていた。それによって、この手紙の内容はラブレターであるということがわかったのだが、フェルメールは後でキューピットを塗りつぶしてしまった」と書いてあった。

 しかし、改めて2017年に同館の絵画修復家がニスや汚れの層を分析した結果、フェルメールの死後、18世紀に何者かによって上塗りされたと判明したという。春江のは小説は1969年に絵画館を訪れた設定なので、こうした表現になったのだろう。

 消されたキューピットは、その後同館の4年にわたる修復作業で2021年8月に矢を持ったキューピッドの立像が復元され、同年9月から公開になったそうだ。ことし東京都美術館で開かれる『ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展』で展示される予定(開催時期はコロナ禍の影響で1月22日が延期となり、いまのところ未定)で、フェルメール人気が再燃するのではないか。チケット購入は困難かもしれない。コロナ禍の推移を見ながら、チケットが購入できれば、キューピット入りの作品を見てみたいと思う。

 よく知られた絵の下には別の絵が隠されている可能性があるといわれ、レンブラントゴッホの作品にもX線分析で下絵の存在が明らかになっているものがある。フェルメールのこの作品は、だれがどのような目的でキューピットを隠したかは不明だが、ネットで見る限り、私は壁には何もない方が自然に思えてならない。

 フェルメール研究で知られる小林頼子もこの絵について、フェルメールがキューピットを塗りつぶしたという前提で、以下のように触れている。

《手紙を読む女性の絵では、手紙は恋文であることが多い。その図像の慣習に従い、フェルメールも恋の便りを選び、その内容を伝えるため、当初は背後にキューピットの絵を描き入れたのであろう。当時、画中画を主要モティーフの意味を補うために使うのは、ごく普通のことであった。ところが、フェルメールはこの画中画を塗りつぶし、壁をただただ光を反射する場に変えてしまった。明るい壁には、その前に置かれたモティーフをくっきりと浮き立たせる効果がある。手紙の内容は曖昧になったが、女性が何ものにも心乱されず手紙に没頭する様は一段と鮮明になった。(『フェルメール』角川文庫)

 この絵は第二次大戦中、戦禍を避けるために他の美術品とともにザクセン・スイス の坑道に保管されていた。しかし戦後、ラファエロの『システィーナの聖母』やジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』とともにソ連軍が接収、10年後に返還された経緯がある。そのままソ連に残っていれば、キューピットは復活しなかったかもしれない。ナチスドイツも、ソ連と同様、第二次大戦当時、大量の美術品をフランスなどから略奪しており、連合国が特別作戦で取り戻したことはよく知られている。

 ※皆様へ 2022年もよろしくお付き合いください。

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写真1、調整池の初日の出 2、西の空がピンクに輝いた朝 3、フェルメールの『窓辺で手紙を読む少女』 左は壁にキューピットがない絵(アルテ・マイスター発行図録から)、右はキューピットが復元された絵(美術手帖から)=写真は見比べると色合い、両隅のずれなどがあります。ご了承ください。

2088 コロナ禍の2021年を送る 逆境にあっても明日を信じて

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 2021年もコロナ禍で明け暮れました。新聞・通信社が選ぶ十大ニュース、今年もコロナ禍が内外ともにトップ(あるいはそれに近い)になっています。何しろ、世界の感染者は2億8436万人、死者は542万人(30日現在。日本は感染者173万3207人、死者1万8393人)というパンデミックが続いているのですから、21世紀の歴史に残る忌まわしいニュースといっていいでしょう。このように明るい話が少ない1年でしたが、わずかながら光明もありました。

 共同、時事両通信社の十大ニュースを見ますと、暗いニュースの中で国内では将棋の藤井聡太9段が最年少(19)で四冠を獲得したこと、海外ではプロ野球大リーグのエンゼルス大谷翔平選手(27)が二刀流で活躍、満票でMVPに選出されたことが入っていました。このほか、真鍋淑郎さん(90)がノーベル物理学賞をもらったこと、ゴルフの松山秀樹選手(29)がマスターズで優勝したことが選ばれています。東京五輪パラリンピックが1年延期されて開催されたことは、もちろん大ニュースでしたが、明るいニュースと割り切ることはできなかったのは私だけではないでしょう。この後、日本はコロナ禍の第5波に見舞われたのでした。

 コロナ禍は、オミクロン株によって世界的流行が再燃、1日の新規感染者がアメリカでは40万人、フランスでは20万人を超え、フランスの感染者は1秒に2人の割合になるというニュースも流れています。日本も30日に発表された新規感染者は500人を超えており、第6波が近くやってくる恐れがあると専門家が予測しています。

 世界的パンデミックとなったスペイン風邪(インフルエンザ)は、第一次世界大戦終結した1918年から20年にかけて大流行(第3波まで)し、5億人が感染、5000万人~1億人以上が死亡したといわれています。このままではコロナ禍による感染者もスペイン風邪に匹敵する数字になる恐れがあります。

 ワクチンや治療薬の開発、マスク着用・手洗いの励行など、科学研究の分野や保健衛生環境は当時に比べると格段に進歩し、改善してます。しかし交通手段の発達などグローバル化によってウイルスの封じ込めは簡単ではありません。ですから、コロナ禍が今後どのように推移するのか専門家でも予測するのは困難なのではないでしょうか。スペイン風邪は多くの人が感染した結果、中和抗体(ウイルスの働きを抑制できる抗体)を得たことによって、3年目に次第に収束に向かったそうです。コロナ禍も同じ道を歩むのでしょうか。

 NHKテレビで今朝「大谷選手翔平4年の軌跡」という番組を見ました。タイトルの通り、大谷選手の大リーグ生活を追った特集番組です。その中で少年野球時代、監督だった父親の徹さんと交換日記でやり取りをしていたことに触れていました。徹さんは息子に3つのことを守るよう教えたそうです。

 1、大きな声を出して、元気よくプレイする。
 2、キャッチボールを一生懸命に練習する。
 3、一生懸命に走る。

 大リーグでMVPを獲得する大選手になっても、大谷選手は今もこの父親の教えを続けているそうです。それが純粋に一つのことに懸命に取り組む原点なのだと思います。大谷選手の4年間は、逆境に追い込まれながらそれを克服した歴史でした。コロナ禍にあえぐ時代だからこそ、逆境にあっても明日を信じ続けることの大事さを教えられた気がするのです。

 ベートーヴェンの『第9』第3楽章を聴きながら、今年最後のブログを書いています。ゆったりとした旋律が心に沁みます。2022年が平穏な1年でありますように。

 皆様、良い年をお迎えください。

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2087 アナログへの回帰再び 新聞と行政の協定に衝撃

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 今年は私にとって「静」の漢字が似合う一年だった。ほとんど遠出はせず、東京の美術館には2回しか行かなかった。それでも自宅周辺の散歩だけは欠かさなかった。このほか古いレコードをアナログプレーヤーで聴き直し、それだけでは治まらずに長い間使っていなかったカセットテープ・デッキの埃を払って昔録音したクラシックのテープを入れてみた。レコードプレーヤーに次ぐ、アナログ時代への一時回帰である。

 録音テープの耐久性はよく分からない。何度も繰り返していると擦れ切れるとはいうが、私が持っている数十本のテープはそれほどでなく、デッキに入れると意外といい音が出た。このブログを書きながら聴いているのは、リストのピアノ協奏曲第1番で演奏はNHK交響楽団(指揮者不明)、ピアノは小山実稚恵、87年6月20日の生放送録音だ。小山は82年のチャイコフスキー国際コンクールピアノ部門3位、85年のショパン国際コンクールで4位になった実力派ピアニストで、手元にはこのほかにも小山演奏のテープが何本か残っている。

 カセットテープ(デッキ)は70年代から80年代にかけて音楽用の記録メディアとして人気を集めた。しかし90年代に台頭したCDとMD、2001年のiPodの登場などで需要が急減、生産を打ち切るメーカーが相次いだ。レコードプレーヤーも同様だったが、こちらは音質の良さもあって最近見直しされつつあるようだ。しかしテープデッキの方は苦戦が続いているらしく、アマゾンやヤフーショッピングでラジカセを除いてそれらしい物は見つからない。世の中はアナログからデジタル時代へと確実に変化したことは間違いない。テープデッキはいまや前世紀の遺物になりつつあるようだ。とはいえ私の手元にある貴重な音源テープは捨てられないから、懐古趣味と笑われてもテープデッキに時々電源を入れ、大事にしようと考えている。

 時代の変化といえば、驚くべき動きが大阪であったことを記したい。大阪府読売新聞大阪本社が[公民連携]という名の包括連携協定を締結、27日午後締結式をしたというニュースである。大阪府のHPによると、地域の活性化と府民サービスの向上を図ることを目的に教育・人材育成、情報発信、安全・安心、子ども・福祉、地域活性化、産業振興・雇用、健康、環境など8分野にわたって包括連携協定を結んだという。

 大阪府の吉村洋文知事は日本維新の会副代表、大阪維新の会代表であり、大阪は維新という政党の牙城ともいえる地域だ。新聞の役割は言うまでもなく国(政府)や自治体の動きをフォローし、監視する役割を持つ。政党もその対象だ。行政と新聞社が協定を結ぶことで行政(政党としての維新の会)への批判は果たしてできるのだろうか。協定に「情報発信」が含んでいることから新聞社が行政の「宣伝機関」に成り下がってしまう恐れがあるのではないかと危惧する。これは報道機関の自殺行為ではないか。それを想像できない新聞社は、もはや報道機関ではないといっても過言ではないだろう。

 戦争へと突き進んだ戦前を思い起す。あの時代、新聞だけでなく報道機関全体が政府・軍部の宣伝機関になってしまい、国民総動員、一億玉砕が叫ばれ、おびただしい命を奪い、失った。決して、そうした時代に戻ってはなるまいと思う。年の暮に嫌なニュースを見てしまった。これは私の考えすぎだろうか。