小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2091 繰り返す負の歴史 復興ジャンボ当選というネット詐欺  

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 家族の携帯に心当たりがない相手からおかしなメールが届いた。買ったことがない『コロナ復興ジャンボ』という宝くじの3等に当選したというのだ。当選金額は何と3億5000万円と巨額である。どう見てもいたずらか、詐欺に違いない。指定されたアドレスをクリックして口座番号を教えると、巧妙な手口で大金をせしめようというのだろう。人間はさまざまな面で頭を使っているが、これは悪知恵だ。コロナ禍を利用して詐欺をする輩は少なくない。ネット全盛時代、気を付けることが増えている。以下は宝くじ当選を装った「一攫千金詐欺」(私の命名)メールの内容。

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>> 差出人: ご案内 <miden@cease-decade.com>

>> 日時: 2022年1月4日 20:16:28 JST

>> 宛先:

>> 件名: ※イベント結果※受領期限にご注意下さい

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>> 宝くじ当選金支払い証明書

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>> いつもご利用ありがとうございます。

>> このたび貴方様はコロナ復興ジャンボにおきまして、見事〔3等〕3億5000万円にご当選となりました。

>> おめでとうございます!!

>> ■当選番号:3842932

>> ■当選金額:3億5000万円

>> ■送金方法:銀行振込

>> ■受取手数料:無料

>> ■受取期限:明日12時

>> 上記の内容で、本日このお時間に3億5000万円のお受取りをご希望される場合は、まずラインアプリを起動して頂き、 @995tiufq を友達追加してください。

>> 追加の確認が取れましたら、貴方様の当選金受取における意思確認が取れたものとみなし、即時ご送金致します。

>> □当選金お受け取り手順□

>> 1.ラインを起動して頂き下記IDの友達追加をお願い致します。

>> ▼当選金振り込み専用ライン

>> @995tiufq

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>> 2.その後、口座確認を行いますので、予め口座情報をご用意ください。

>> 3.確認が取れましたら、3等当選金(3億5000万円)を手数料無料で送金致します!

>> ⇒宝くじ当選における詳細はラインにて @995tiufq を友達登録後に事務局までご質問下さい。

>> ■注意!!

>> 期限内に貴方様からのラインへの友達登録が無い場合、当選権利は破棄となりますのでご注意ください。

>> ※よくあるお問い合わせ

>> Q.受け取るのに手続き費用や、処理は必要ですか?

>> A.送金手続き費用・処理等一切ございませんのでご安心くださいませ。

>> ご当選となりました場合、【ご当選金】の送金手数料等は当社にて負担させていただき、無料送金とさせていただきます。

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>> A.口座情報1点のみご用意ください!

>> ・当選されました場合は【ご当選金】のお振込み先となります金融機関口座をご用意くださいませ。

>>  <miden@cease-decade.com>

>> Q.支援難民ですが受け取れますか?

>> A.ご安心ください!支援難民といったものは存在いたしません!確実に送金致します!!

>> A.SNSサイトで支援金を受け取る手続きをしているのですが、そちらが終わらないと他の支援金や当選金は受け取れないと言われたのですが…?

>> Q.全く問題ございません!確実に当選金を貴方様へ送金する事をお約束いたします!

>> A.ラインの友達登録方法が分からないです

>> ラインアプリを起動して頂き、「ホーム」もしくは「トーク」をタップして頂き、上部にございます検索欄へ @995tiufq と記載して頂きますと表示されますのでそのまま追加+という部分をタップして頂ければ完了です!

>> この度は、ご当選おめでとうございます!

>> お受け取りに関してご不明な点などございましたら遠慮なく、こちらまでご連絡くださいませ。

>> それでは、当選金3億5000万円お受け取りまで今しばらくお待ちください。

 

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 これを見て、詐欺だと思わない人はほとんどいないだろう。コロナ禍陰謀説がまことしやかに流れ、ワクチン接種も危険だから、従業員の接種を止めようとした経営者がいたことが話題になったこともある。海外では福島の原発事故は、実は事故に見せかけたイスラエルがやった秘密兵器実験だったとか、広島へ投下されたのは原爆ではなく通常爆弾だった、などという、怪しげが情報も流れているという。

 このブログで以前、フェースブックの友だちリクエストを装った詐欺の手口を紹介した。知人から、「私も同様のことがあった」と連絡があった。最近はラインのアカウントを乗っ取られ、危うく詐欺犯人に使われそうになった友人もいた。ネット社会は便利な反面、危険が伴うことを頭に入れておく必要がある。人間の歴史は犯罪の繰り返しの歴史でもある。現代の特殊詐欺も形は変えても、そうした人間の負の歴史の延長なのだ。だから捜査当局と犯罪者のいたちごっこは、終わりそうにない。

※ 宝くじを扱っているみずほ銀行でもHPでこうした詐欺に対し、注意を促している

2090 新年の九十九里を歩く 古刹には名言の碑

 

                 

         

『鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ』。仏教詩人といわれる坂村真民の詩の一節だ。コロナ禍で人の命は軽くなっている。そうした現代に生きる私たちを励ますような詩碑が古刹の一角にあった。「浜の七福神」といわれる七福神巡りのコースが千葉県の九十九里にあることを知り、出かけてみた。2日朝。最低気温は氷点下1度。ラジオ体操参加者は11人と少ない。日差しが出るのが遅くて、温暖なはずの九十九里地方も結構寒い。

 このコースがどのようないわれで設定されたかは知らない。目指した7つの寺社は清泰寺(長生村・弁財天)~真光寺(白子町・毘沙門天)~観明寺(一宮町・福禄寿)~要行寺(大網白里市・寿老人)~八坂神社(九十九里町・恵比寿)~五所神社山武市・大黒天)~四社神社(横芝光町布袋尊)。車を利用して全部回り終えるには3時間以上を要した。初めて訪れたのだが、コロナ禍の影響か、どの寺社も人影は少なかった。

 このうち五所神社は、1171年(高倉天皇当時の承安元年)創建という伝統ある神社。源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を征伐した戦い(1189・文治5)の後、凱旋途中に立ち寄り、武運長久を感謝し兵を休息させた言い伝えが、入り口の案内に書かれている。坂村の詩碑は天台宗の観明寺(創建734・天平6の古刹)に建っていた。こちらの方が五社神社よりもかなり歴史が古い。坂村は仏教詩人といわれるだけあって、詩碑は全国の他の寺にもあるそうだ。観明寺には『念ずれば花ひらく』という坂村の別の詩碑もあり、2つの詩碑は多くの寺で目にすることができるようだ。仏教詩人という分野があるのかどうかは別にして、宮沢賢治相田みつを、坂村の3人をこのような呼称をする場合もあるらしい。坂村の詩は、人生についての名言として採用されたのだろうか。

 観明寺のある一宮町には芥川龍之介が大正3年夏と5年夏の2回にわたって滞在、この町で初恋を経験した。芥川は一宮の思い出をいくつかの作品に書き、ホテル一宮館の一隅には芥川の文学碑が残っている。以前立ち寄ったことがあり、今回は割愛した。『野菊の墓』の伊藤佐千夫は五所神社のある山武市の生まれだ。同市の蓮沼では、児童文学作家の北川千代(1894~1965)が晩年を過ごした。63の作品のうち33作は蓮沼で書いたそうで、道の駅「オライ蓮沼」の一角には原稿など北川ゆかりの資料が展示されている。このコーナーの後ろでは初売りの抽選会があって、にぎやかな声が響いていた。

「ほら太東岬と銚子の犬吠埼との間に、九十九里浜っていうのがあるだろう。僕のきた村はその長い海岸のちょうどまん中ごろなんだよ。この村は海に面しているけれども、漁をしているのは浜ぞいの方の人たちだけで、あとはたいてお百姓だ。いまはもう春で、地引もそろそろはじまるから元気づくだろう」(『村のたより』から)。北川は短い文章で九十九里を的確に表した。九十九里は文学者にも愛された土地だった。

  

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          (一宮町観明寺山門)              

    

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         (観明寺の福禄寿)

    

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         (坂村真民の詩碑・観明寺)

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         (山武市五所神社の長い参道)

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    (道の駅「オライ蓮沼」に展示された北川千代ゆかりの資料)

 
 

※注『鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ』の詩の全文

 

 鳥は飛ばねばならぬ

 人は生きねばならぬ

 

 怒濤の海を

 飛びゆく鳥のように

 混沌の世を

 生きねばならぬ

 

 鳥は本能的に

 暗黒を突破すれば

 光明の島に着くことを

 知っている

 そのように人も

 一寸先は

 闇ではなく

 光であることを

 知らねばならぬ

 

 新しい年を迎えた日の朝

 わたしに与えられた命題

 鳥は飛ばねばならぬ

 人は生きねばならぬ

 

2089 蘇ったキューピット フェルメール『窓辺で手紙を読む少女』

        

 フェルメール(1632~75)の『窓辺で手紙を読む少女』(あるいは『窓辺で手紙を読む女』)の絵を見たのは2008年9月のことだった。ドイツ・ドレスデン古典巨匠絵画館(アルテ・マイスター)のオランダ絵画の部屋。小さなこの絵(83センチ×64・5センチ)はあまり目立たず、絵の前に人影はまばらだった。少女の横の壁には何もない。しかし、この絵には隠された秘密があった。それを復元し、この絵は東京都美術館で展示されるという。

 この絵はフェルメールの名作の一つとされ、ラファエロの『システィーナの聖母』、リオタールの『チョコレートの少女』などとともにアルテ・マイスターに収蔵されている作品(約780点)の中でも、特に人気が高いという。チェコの改革運動の悲劇をテーマにした春江一也の『プラハの春集英社)』の続編『ベルリンの秋』(同)にも、主人公の在プラハ日本大使館書記官がアルテ・マイスターを訪れ、『システィーナの聖母』と『窓辺で手紙を読む少女』を見る場面が描かれている。

《その絵は無造作に壁に掛けてあった。思ったより小さい絵だった。開け放たれた窓辺で、硬い表情の女が手紙を読んでいる。そばのテーブルには、あわただしく置いたのか、果物を盛った皿が傾いてリンゴがこぼれている。どんな手紙だったのだろう。恋人からの別れの手紙なのか。それとも肉親から届いた哀しい知らせだったのか。》

 実は、女性の横の壁にはキューピットが描かれていることが1979年のX線分析で発見されていた。これについて研究者は、フェルメール自身が塗りつぶし、背景に余白を作り出したのではないかと考えていたという。私が当時アルテ・マイスターで購入した図録集にも「もともと少女の頭上の白い壁のところにはキューピットが描かれていた。それによって、この手紙の内容はラブレターであるということがわかったのだが、フェルメールは後でキューピットを塗りつぶしてしまった」と書いてあった。

 しかし、改めて2017年に同館の絵画修復家がニスや汚れの層を分析した結果、フェルメールの死後、18世紀に何者かによって上塗りされたと判明したという。春江のは小説は1969年に絵画館を訪れた設定なので、こうした表現になったのだろう。

 消されたキューピットは、その後同館の4年にわたる修復作業で2021年8月に矢を持ったキューピッドの立像が復元され、同年9月から公開になったそうだ。ことし東京都美術館で開かれる『ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展』で展示される予定(開催時期はコロナ禍の影響で1月22日が延期となり、いまのところ未定)で、フェルメール人気が再燃するのではないか。チケット購入は困難かもしれない。コロナ禍の推移を見ながら、チケットが購入できれば、キューピット入りの作品を見てみたいと思う。

 よく知られた絵の下には別の絵が隠されている可能性があるといわれ、レンブラントゴッホの作品にもX線分析で下絵の存在が明らかになっているものがある。フェルメールのこの作品は、だれがどのような目的でキューピットを隠したかは不明だが、ネットで見る限り、私は壁には何もない方が自然に思えてならない。

 フェルメール研究で知られる小林頼子もこの絵について、フェルメールがキューピットを塗りつぶしたという前提で、以下のように触れている。

《手紙を読む女性の絵では、手紙は恋文であることが多い。その図像の慣習に従い、フェルメールも恋の便りを選び、その内容を伝えるため、当初は背後にキューピットの絵を描き入れたのであろう。当時、画中画を主要モティーフの意味を補うために使うのは、ごく普通のことであった。ところが、フェルメールはこの画中画を塗りつぶし、壁をただただ光を反射する場に変えてしまった。明るい壁には、その前に置かれたモティーフをくっきりと浮き立たせる効果がある。手紙の内容は曖昧になったが、女性が何ものにも心乱されず手紙に没頭する様は一段と鮮明になった。(『フェルメール』角川文庫)

 この絵は第二次大戦中、戦禍を避けるために他の美術品とともにザクセン・スイス の坑道に保管されていた。しかし戦後、ラファエロの『システィーナの聖母』やジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』とともにソ連軍が接収、10年後に返還された経緯がある。そのままソ連に残っていれば、キューピットは復活しなかったかもしれない。ナチスドイツも、ソ連と同様、第二次大戦当時、大量の美術品をフランスなどから略奪しており、連合国が特別作戦で取り戻したことはよく知られている。

 ※皆様へ 2022年もよろしくお付き合いください。

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写真1、調整池の初日の出 2、西の空がピンクに輝いた朝 3、フェルメールの『窓辺で手紙を読む少女』 左は壁にキューピットがない絵(アルテ・マイスター発行図録から)、右はキューピットが復元された絵(美術手帖から)=写真は見比べると色合い、両隅のずれなどがあります。ご了承ください。

2088 コロナ禍の2021年を送る 逆境にあっても明日を信じて

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 2021年もコロナ禍で明け暮れました。新聞・通信社が選ぶ十大ニュース、今年もコロナ禍が内外ともにトップ(あるいはそれに近い)になっています。何しろ、世界の感染者は2億8436万人、死者は542万人(30日現在。日本は感染者173万3207人、死者1万8393人)というパンデミックが続いているのですから、21世紀の歴史に残る忌まわしいニュースといっていいでしょう。このように明るい話が少ない1年でしたが、わずかながら光明もありました。

 共同、時事両通信社の十大ニュースを見ますと、暗いニュースの中で国内では将棋の藤井聡太9段が最年少(19)で四冠を獲得したこと、海外ではプロ野球大リーグのエンゼルス大谷翔平選手(27)が二刀流で活躍、満票でMVPに選出されたことが入っていました。このほか、真鍋淑郎さん(90)がノーベル物理学賞をもらったこと、ゴルフの松山秀樹選手(29)がマスターズで優勝したことが選ばれています。東京五輪パラリンピックが1年延期されて開催されたことは、もちろん大ニュースでしたが、明るいニュースと割り切ることはできなかったのは私だけではないでしょう。この後、日本はコロナ禍の第5波に見舞われたのでした。

 コロナ禍は、オミクロン株によって世界的流行が再燃、1日の新規感染者がアメリカでは40万人、フランスでは20万人を超え、フランスの感染者は1秒に2人の割合になるというニュースも流れています。日本も30日に発表された新規感染者は500人を超えており、第6波が近くやってくる恐れがあると専門家が予測しています。

 世界的パンデミックとなったスペイン風邪(インフルエンザ)は、第一次世界大戦終結した1918年から20年にかけて大流行(第3波まで)し、5億人が感染、5000万人~1億人以上が死亡したといわれています。このままではコロナ禍による感染者もスペイン風邪に匹敵する数字になる恐れがあります。

 ワクチンや治療薬の開発、マスク着用・手洗いの励行など、科学研究の分野や保健衛生環境は当時に比べると格段に進歩し、改善してます。しかし交通手段の発達などグローバル化によってウイルスの封じ込めは簡単ではありません。ですから、コロナ禍が今後どのように推移するのか専門家でも予測するのは困難なのではないでしょうか。スペイン風邪は多くの人が感染した結果、中和抗体(ウイルスの働きを抑制できる抗体)を得たことによって、3年目に次第に収束に向かったそうです。コロナ禍も同じ道を歩むのでしょうか。

 NHKテレビで今朝「大谷選手翔平4年の軌跡」という番組を見ました。タイトルの通り、大谷選手の大リーグ生活を追った特集番組です。その中で少年野球時代、監督だった父親の徹さんと交換日記でやり取りをしていたことに触れていました。徹さんは息子に3つのことを守るよう教えたそうです。

 1、大きな声を出して、元気よくプレイする。
 2、キャッチボールを一生懸命に練習する。
 3、一生懸命に走る。

 大リーグでMVPを獲得する大選手になっても、大谷選手は今もこの父親の教えを続けているそうです。それが純粋に一つのことに懸命に取り組む原点なのだと思います。大谷選手の4年間は、逆境に追い込まれながらそれを克服した歴史でした。コロナ禍にあえぐ時代だからこそ、逆境にあっても明日を信じ続けることの大事さを教えられた気がするのです。

 ベートーヴェンの『第9』第3楽章を聴きながら、今年最後のブログを書いています。ゆったりとした旋律が心に沁みます。2022年が平穏な1年でありますように。

 皆様、良い年をお迎えください。

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2087 アナログへの回帰再び 新聞と行政の協定に衝撃

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 今年は私にとって「静」の漢字が似合う一年だった。ほとんど遠出はせず、東京の美術館には2回しか行かなかった。それでも自宅周辺の散歩だけは欠かさなかった。このほか古いレコードをアナログプレーヤーで聴き直し、それだけでは治まらずに長い間使っていなかったカセットテープ・デッキの埃を払って昔録音したクラシックのテープを入れてみた。レコードプレーヤーに次ぐ、アナログ時代への一時回帰である。

 録音テープの耐久性はよく分からない。何度も繰り返していると擦れ切れるとはいうが、私が持っている数十本のテープはそれほどでなく、デッキに入れると意外といい音が出た。このブログを書きながら聴いているのは、リストのピアノ協奏曲第1番で演奏はNHK交響楽団(指揮者不明)、ピアノは小山実稚恵、87年6月20日の生放送録音だ。小山は82年のチャイコフスキー国際コンクールピアノ部門3位、85年のショパン国際コンクールで4位になった実力派ピアニストで、手元にはこのほかにも小山演奏のテープが何本か残っている。

 カセットテープ(デッキ)は70年代から80年代にかけて音楽用の記録メディアとして人気を集めた。しかし90年代に台頭したCDとMD、2001年のiPodの登場などで需要が急減、生産を打ち切るメーカーが相次いだ。レコードプレーヤーも同様だったが、こちらは音質の良さもあって最近見直しされつつあるようだ。しかしテープデッキの方は苦戦が続いているらしく、アマゾンやヤフーショッピングでラジカセを除いてそれらしい物は見つからない。世の中はアナログからデジタル時代へと確実に変化したことは間違いない。テープデッキはいまや前世紀の遺物になりつつあるようだ。とはいえ私の手元にある貴重な音源テープは捨てられないから、懐古趣味と笑われてもテープデッキに時々電源を入れ、大事にしようと考えている。

 時代の変化といえば、驚くべき動きが大阪であったことを記したい。大阪府読売新聞大阪本社が[公民連携]という名の包括連携協定を締結、27日午後締結式をしたというニュースである。大阪府のHPによると、地域の活性化と府民サービスの向上を図ることを目的に教育・人材育成、情報発信、安全・安心、子ども・福祉、地域活性化、産業振興・雇用、健康、環境など8分野にわたって包括連携協定を結んだという。

 大阪府の吉村洋文知事は日本維新の会副代表、大阪維新の会代表であり、大阪は維新という政党の牙城ともいえる地域だ。新聞の役割は言うまでもなく国(政府)や自治体の動きをフォローし、監視する役割を持つ。政党もその対象だ。行政と新聞社が協定を結ぶことで行政(政党としての維新の会)への批判は果たしてできるのだろうか。協定に「情報発信」が含んでいることから新聞社が行政の「宣伝機関」に成り下がってしまう恐れがあるのではないかと危惧する。これは報道機関の自殺行為ではないか。それを想像できない新聞社は、もはや報道機関ではないといっても過言ではないだろう。

 戦争へと突き進んだ戦前を思い起す。あの時代、新聞だけでなく報道機関全体が政府・軍部の宣伝機関になってしまい、国民総動員、一億玉砕が叫ばれ、おびただしい命を奪い、失った。決して、そうした時代に戻ってはなるまいと思う。年の暮に嫌なニュースを見てしまった。これは私の考えすぎだろうか。

2086 混乱期を生きる母と娘 かくたえいこ『さち子のゆびきりげんまん』

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 昭和から平成を経て令和になり、昭和は遠くなる一方だ。日中戦争、太平洋戦争という戦争の時代だった昭和。そして、敗戦。70数年前の人々はどんな生活を送っていたのだろう。かくたえいこ(角田栄子)さんの児童向けの本『さち子のゆびきりげんまん』(文芸社)は、混迷の時代に生きた母と娘の姿が詩情豊かに描かれている。どんなに貧しくとも前を向いて歩む母と娘。「ゆびきりげんまん」はどんな意味が込められているのか。

 物語の舞台は昭和20年代の栃木県の農村。小学校入学が1年後に迫ったさち子は、お母ちゃんとともに足利市の家を出てお母ちゃんの実家(農家)がある豊郷村(川俣)に戻り、2人で生活を始める。「キンカン」「柿の実」「雪の日」「ゆびきりげんまん」の4つの章から成る物語はさち子の成長の記録であると同時に、お母ちゃんと娘の愛情物語でもある。

 以下、簡単に各章の内容を記すと――。

 さち子はある朝、家の門のそばにあるキンカンの小さな実がなっているのを見つけ、その実をズボンのポケットにしまう。それからお母ちゃんに大好きなものを入るだけリュックに入れるように言われ、お母ちゃんとともに家を離れて足利駅から省線(現在のJR、旧国鉄両毛線)に乗る。それが父との別れだった。お母ちゃんはだれもいなくなった実家に戻ることをさち子に話し、さち子は汽車の中で廊下のガラス越しに見送る父親を思い出し、ポケットのキンカンをそっと握るのだった。(「キンカン」)。

 小山で東北線に乗り換えたお母ちゃんとさち子は、汽車が混んでいるため通路に新聞紙を敷いて座り、宇都宮で下車する。2人は駅前のラーメン屋で1杯のラーメンを食べ、木炭バスに乗り海道新田というバス停で降りる。近くにはタバコ屋を営むお母ちゃんの叔父の家があり、挨拶に寄ったお母ちゃんに叔父はリヤカーを貸してくれる。さち子はお母ちゃんがひくリヤカーの荷台に乗って川俣へと向かう。到着した所には雑草が生い茂り、土壁が崩れかけた小さな家があった。それがお母ちゃんの生まれた家だった。家の周りには橙色の実がたくさんなっている大きな木が何本もある。それはさち子が初めて見る柿の木だった。(「柿の実」)

 さち子は小学1年生になった。村にやってきて2度目の冬のある日、雪がかなり降っている。さち子は校庭で雪ウサギを作って遊んだ。お弁当を食べ終え、下校時間になっても雪はやまなかった。大人がいっぱい迎えにきているが、お母ちゃんは来ていない。同じクラスのさなえちゃんという体の弱い女の子は、お父さんらしい男の人に背負われて帰っていく。さち子は数人の男の子の後を歩き、男の子たちがいなくなると、大またでやってきたおじさんの後ろを懸命に歩いた。おじさんがいなくなると、吹雪になった。さち子は向こうからやってきた荷馬車をよけようとして土手下に落ち、雪だまりの中に入り込んでしまった。必死に這い上がったさち子は吹雪の中を一歩、一歩お母ちゃんが待つ集落を目指す。(「雪の日」)

 3年生の始業式の日。さち子は隣の席のたみちゃんと一緒に下校する。足利から豊郷にやってきたさち子には、それまで仲のいい友達はできなかった。たみちゃんは同じ集落の同級生で3年生になってから隣の席に座った。2人は初めておしゃべりをし、一緒に帰ることになった。帰り道、2人は家に帰った後、子どもたちの遊び場である神社で遊ぶ約束をし「ゆびきりげんまん」をする。だが、さち子が家に帰ると、お母ちゃんはジャガイモの種の植え付けを手伝うよう言いつける。さち子が仕方なくお母ちゃんと一緒に畑に向かう途中、神社のそばを通ると、赤ちゃんを背負ったたみちゃんがいたが、さち子は何も言わず、畑に行く。ジャガイモの植え付けは順調に終わり、その帰り道、さち子はお母ちゃんに、たみちゃんと遊ぶ約束を破ったことを話した。

 この後、お母ちゃんとさち子はどのような行動をとっただろう。その結末は爽やかだ。(「ゆびきりげんまん」)

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 さち子の母は父と結婚して足利に住んでいた。さち子は1944(昭和19)年生まれで、上に兄3人がいた。母はさち子が生まれると、小学校の先生をやめていた。豊郷の実家を継いでいた弟が病気で亡くなると、跡を継ぐ人がなく、このままでは借金のかたに家や田畑が取られてしまうといって、父の反対を押し切って実家に戻り、農家になったのだ。

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 今にも崩れ落ちそうな家に戻った母と娘。農家の出身とはいえ、小学校の教師だった女性が農業で生計を立てるのは容易なことではないはずだ。だが、さち子の母はそうした困難に向かって挑んでいく。この物語は敗戦によって日本全体が混迷・混乱していた時代に生きる母と娘の姿を通じて、現代のコロナ禍に生きる私たちに明日への希望を持つことの大切さを教えてくれるのだ。

 私もこの作者と同じ時代を歩んだ。母は父が戦死した後、末っ子の私を含め5人の子どもを育ててくれた。この本を読み終えて、私は気丈だった母とさち子のお母ちゃんが二重写しとなり、「ゆびきりげんまん」の後も2人が懸命に、力強く生きてほしいと願った。

 今年は戦後76年になる。明治から大正、昭和の時代を担った私たちの親の世代はほとんどがこの世にはいないから、戦時中から戦後の苦しい時代を語ってくれる人は少なくなった。そうした世代から引き継いだ市井の人の日常生活を、かくたさんは流れるような平易な文章でまとめた。長い教員生活で培った、人を大事にする精神がこの物語に生かされている。コロナ禍で閉塞感が強いこのごろ、そうしたうっとうしさを振り払ってくれる心洗われる一冊といえる。

2085 それぞれの故郷への思い『今しかない』第4号から

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 よく知られている室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しく歌ふもの」は、『小景異情』という詩の「その2」にあり、望郷の詩句の代表ともいえる。人は年老いるほど、故郷への思いが強くなるのかもしれない。このブログで何度か紹介した『今しかない』という小冊子がある。最近届いた第4号は、「故郷」を特集し、それぞれの故郷への思いとともに、幼いころの光あふれた時代を浮かび上がらせている。

 この小冊子は、埼玉県飯能市の介護老人保健施設・飯能ケアセンター楠苑(1997年6月2日開設、定員98名)石楠花の会発行の『今しかない』(編集・齋藤八重子、滝谷淳子、浅見京子、顧問・大島和典)。2020年5月に創刊号、同年12月に第2号、ことし5月に第3号を出した手作りの文集だ。コロナ禍という歴史的大きな災厄に見舞われる中で、この冊子は読むものに生きる勇気と希望、笑顔を与えてくれる珠玉の言葉が詰まっている。

 第4号は「標」(しるべ)というテーマで利用者や職員の声を紹介し、さらにこれまでこの小冊子に寄せられた読者の声も掲載している。このブログではこれらは割愛し、同苑の利用者だけでなく、かかわりの深い人たちから寄せられた望郷の思いもまとめて紹介する。(地名は筆者の出身地あるいは現住地。見出し・本文=ですますに統一=など一部手直ししています)

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 ▼父母からの授かり物
 畝立て 種蒔き 土握る 亡父母(ふぼ)の汗浸む 愛しき大地
畑を耕し先祖からの土地を、亡くなった父母を思いながら鍬をふるいます。畑仕事ができることはありがたく、父母からの授かり物とも思えました。汗することの尊さも身体が教えてくれました。(富山県 浦林郁子) 

 ▼朝礼前の草むしり 
 飯能に生まれ育った私。近くに学校はなく、精明小学校まで1時間以上毎日歩いて通いました。朝礼の前まで全校生徒が一列に並び、草むしり作業が日課でした。
 今の市役所、富士見小も第一中の敷地で、広い校庭で部活や校外学習、地区めぐり等、多くの友達や仲間も増え、楽しい毎日を送りました。そんな田舎が今では多くの工場が並びました。小さい時から辛抱強く過ごすことを学び、今日に感謝し幸せな日々が過ごせていますので、ふる里は私の基礎です。(埼玉県 山川文子)

 ▼嬉しい東京土産 
 昭和18年、群馬の農家の長女として生まれました。物心ついた時には疎開してきた東京の人たちが屋敷内に住んでおりました。伯父さんが雷おこしや雑誌の東京土産を持ってきた時は、子ども心に嬉しかったことを覚えています。
 海軍に行っていた伯父さんはハーモニカ、父は尺八を吹くのを風呂上りに聴いたことがあり、私が歌が好きになったのは、このころかなと思っています。妹たちの子守をしながら、お手玉、おはじき、縄跳び、馬とびなどをして夕方まで遊びました。小学校の学芸会があり、両親が見学に来てくれたこともよい思い出です。(群馬県 平沼ミサヲ)
 
 ▼自然とともに 
津軽海峡冬景色」の歌詞そのままに、竜飛岬から日本海沿いに下った小さな漁村。夜、地平線に漁火灯る景色が自然と浮かんできます。内陸のリンゴ畑が広がるイメージは全くなく、大した産業もない、半農半漁で経済的に厳しく、漁師を業にしている人以外、大半は出稼ぎで、残る家族がわずかな田畑で生計を成していました。幼いながら、いつの間にか掃除、洗濯、田畑の手伝いは否応無し。不思議にも周囲の友達も同様の状態で、当然のことのように受け止めてきたように思います。
 戦後生まれで、戦争中の悲惨さは知る由もない私。小さい村でも戦争の爪痕が残り、小学校と近くの砂山に爆弾投下によるすり鉢のようにえぐれた穴がありました。
 海あり、山あり、自然の遊び場所には恵まれ、どこもかしこも友だちとの思い出深い場所です。夢に見る景色は昔のままですが、田舎を離れて50年。親なき今は足遠のくも、帰省する度に景色は変わり、住む人変わり、空き家が増え、浦島太郎の心境ですが、ふるさとはとってもいいものですね。親との思い出に浸り、友との再会に帰りたくなるふるさと。心の財産です。(青森県 横野英子)
 
 ▼忘れられないさつま芋
 昭和18年生まれです。3キロ以上もある立派な赤ん坊だったそうです。母乳をよく飲み、よく眠り、手のかからない丸々と太った子に育ちました。19年ごろ、父が2度目の出征をしました。母、兄、私の3人は島原半島南東の小さな漁村にある父の実家に移りました。この村はまだまだ食べ物がありました。父が20年秋に復員して、勤務の都合で諫早に移り住みました。このころは食料不足の真っ只中、すっかり青白くやせ細った女の子になっていたのです。
 これからがさつま芋の話です。芋ごはんを朝炊いて一日食べます。藤で編んだ入れ物におひつを入れて保温します。夕食の時には、すっかり冷ごはんに! 冷たいごはんに熱いお茶をかけていただきました。おかずは何だったのでしょう。時々父の実家に一緒に食料の調達に行きました。バスは木炭を使い、坂道では力のある人がバスを押したのは楽しい思い出です。時は過ぎ、食料事情も好転していきました。
 さつま芋も今はすっかり品種改良され、出世しました。スーパーに行くと焼き芋の香りが食欲を誘います。甘くてほくほく、しっとりのスイーツとしても定着しました。大学芋、スイートポテト、高級菓子店でもさつま芋を使ったお菓子が誇らしげに、そして上品に並んでいます。これらをいただく時、しみじみとおいしく食べられることの喜びを感じずにはいられません。(長崎県 平野恵子)
 
 ▼磐梯山を眺めながら
 会津に生まれ、会津に嫁ぎ、農業と呉服店勤めで89年が過ぎました。いつの間にか歳を取り、今は朝に夕に四つ車を押して磐梯山を眺めながら野菜畑に通う毎日です。畑に行き、野菜が育つのを見るのが一番の楽しみです。山菜採りも大好きで、そのようなことが生きる楽しみです。
 この歳になると、茶飲み友だちもいなくなり、淋しい田舎暮らし。それでも生きていることは楽しい。(福島県 櫻井信子)

 ▼カニと遊ぶ
 野良仕事にはげむ、おとさんとおかさん。そばで一生懸命手伝いました。家の背戸(裏口)の石垣にカニがいっぱいいました。石垣の穴から出てきたり、引っ込んだり、釣り竿でカニを釣って遊びました。
 俳句 ふるさとの石垣赤き蟹遊ぶ(和歌山県 和田茂代)
 
 ▼両親の言葉を胸に
 生まれ育った町南アルプス市は、山々に囲まれた山梨県の小さな町です。周りを見渡せば、川や畑があり、とても徒歩で生活できる場所ではありませんが、空気と水がすごくきれいです。
 両親から教えられた「どんな時でも強く素直で居続けなさい」という言葉を、今でも自分に言い続けています。24歳になりますが、なぜ自分が今、人生と立ち向かっていけているのか……。僕の中で一番大切にしているのが「人としての心を持ち続ける」ことです。困っている人がいたら、すぐに助けること、誰かがうまくいったことに素直にほめる、自分がこうしてあげたいという気持ちを隠さず、素直に表に出してあげることです。
 この町でいろいろなことがあり、たくさんのことを知り、日々に感謝続けた今が僕の人生です。(山梨県 前田清春

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 ▼風船爆弾のこと
 父の本家・実家が北茨城市にあります。終戦前の小学生のころ、県北の関南町と千葉県一宮町から偏西風に乗って爆弾を放球するとの話を聞かされましたが、極秘の話で(大本営陸軍指令)他言はだめと言われました。北茨城には野口雨情(赤い靴、七つの子、カラスなぜなくの等の作詞者)の生家があり、こんな詞を今でも覚えています。
 天妃山(てんぴさん)から東を見れば 見えはしないが見えたなら あれはアメリカ合衆国(『磯原小唄』より・一部略)
 天妃山は海に突き出した山で、山上には弟橘媛(おとたちばなひめ・日本書記によると、荒れた海を鎮めるために入水した女神で、日本武尊の妻とされる女性))を祀った神社があります。北茨城の華川関南(はなかわせきなみ)盆地の山蔭から夕方前に巨大な風船が金色の夕日に輝き、1つ2つ3つと数十個が上空にふわりふわりと揚がる光景が今でも思い出されるのです。あれが風船爆弾と思ったが、一定の高度を保った装置で太平洋を横断してアメリカまで飛んでいくという……。想像がつきませんでした。
 製作にはコンニャク芋が糊として使用されていました。紙は埼玉小川町から取り寄せたと聞いています。コンニャクは軽い上に気密性と粘度があるらしい。貼るのは女子生徒が動員されたといいいます。私は風船と聞くと、子供のころのこうした光景を思い出すのです。(埼玉県 緑川忠順)※注1・風船爆弾

 ▼モンテンルパの歌
 15年前にバスツアーで信濃方面に旅行しました。天竜峡を散策していましたら「モンテンルパの碑」と書いた標識が目につきました。この碑を見て、ある歌を思い浮かべ、私だけちょっとみんなの歩くコースを外れて行ってみました。「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌詞を刻んだ碑が建っていたのです。
 フィリピンマニラ郊外のモンテンルパ刑務所には終戦後、日本のB、C級戦犯が収容されていました。この作詞者がB級戦犯死刑囚の代田銀太郎さんという方で、長野県出身と説明板に記載されていました。作曲した方も同じくB級戦犯死刑囚ということです。渡辺はま子がこの歌を歌ったのは戦後7年を経過した昭和27年のことで、はま子はこの刑務所を慰問、この歌を歌ったら会場からすすり泣きが聞こえたそうです。
 父の長兄も義母の兄もフィリピンで戦死しました。幼いころ、父の実家に遊びに行くと、最初に必ず仏壇に手を合わせに行くよう言われました。今もその癖がついています。義母がフィリピンに慰問に行ったとき、私の息子と娘の服や靴を預けて、現地に置いてもらいました。いい供養になると思ったからです。(埼玉県 渡部峰逸留)※注2・モンテンルパ      

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 冒頭に書いた室生犀星の詩は、実は遠い空の下で故郷を思う歌ではなく、犀星が東京から金沢に帰郷した際に作った詩といわれる。東京の暮らしは決して楽ではない。生活の窮乏と東京の酷暑に耐えかねて帰郷と上京を繰り返す生活を続けた青年時代。そんな犀星を、故郷は温かく迎えてはくれなかった。そうした悲哀や故郷への愛憎半ばする思いがこの詩になったという。故郷は遠くにいるからこそ懐かしく、そして、ありがたいものなのだろうか……。            

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 注1「風船爆弾
 11月から3月まで、冬の間は高層の気流が最も速く流れ(ジェット気流)、平均60時間で風船がアメリカ本土に達するとして、太平洋戦争末期に風船爆弾作戦が計画された。和紙をコンニャク糊で三重四重に貼り、水素ガスを入れて、下には爆弾や焼夷弾を1個ないし2個下げて飛ばした。男女の生徒たちがこの作業に駆り出された。実験中に死傷者も出ている。
 勿来(福島)、茨城、千葉の3カ所、42の放球台で4万個揚げる計画があった。30分ごとに1個揚げる計画だったが、実際にはその4分の1しか揚げることができなかった。
 勿来では風船爆弾の基地をつくるため付近の民家40戸が移転させられた。常磐線の列車は基地近くを通過するときは窓の鎧戸を下ろし、外を見ることが禁止されたという。敗戦になると、残った爆弾や焼夷弾は海中に捨てたり、爆破させたりして処分した。
 アメリカ政府の調査では日本から飛来した風船はワシントン25個、オレゴン40個、モンタナ32個、カリフォルニア22個、ワイオミング・サウスダコタアイオワ各8個、カナダ39個、メキシコその他6個で、死者は6人だったという。(衣山武編『神様は海の向こうにいた』より)

 注2「モンテンルパ
 モンテンルパはマニラの南方約25キロメートルに位置し、第二次大戦後、日本人捕虜収容所として使われたニュー・ビリビッド刑務所があった。戦犯となった山下奉文大将(第14方面軍司令官)ら17人が近郊のロスバニョスで処刑され、日本人墓地や平和祈念塔などがある。
 1952年にフィリピンに収容されていた戦犯からNHKのラジオ番組に送られてきた「あゝモンテンルパの夜は更けて」が渡辺はま子、宇都美清の歌でレコード化され、大ヒットした。
 この後、渡辺はニュー・ビリビッド刑務所を慰問し、当時のキリノ大統領に日本人BC級戦犯の釈放を嘆願した。この結果、この歌を作詞した代田銀太郎と作曲した伊藤正康を含む108人全員が釈放となり、帰国を果たした。

 関連ブログ↓

 2049 想像する『今しかない』のカルテット 息の合った冊子編集という演奏

 2015「笑顔を取り戻そう!」『今しかない』第3号から(1)

 1957『今しかない』が第2号に 哀歓の人生模様

 1917 8年間に6000キロを徒歩移動 過酷な運命を生き抜いた記録

 1882 『今しかない』 短い文章で描くそれぞれの人生(1)

 

2084 蕭条とした冬景色 さ霧晴れても

 

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 調整池を回る遊歩道を散歩していると、このところ毎朝のように調整池から霧が立っている。放射冷却によって起きる現象だ。長い年月見慣れているとはいえ風情があって、見飽きない。対面からやってきた女性が『冬景色』の歌を口ずさみながら歩いていく。女性が遠ざかると、私も同じ歌を小さな声で歌ってみた。歳時記には冬の季語である「冬景色」の説明に「蕭条」(しょうじょう)という言葉が使われている。目の前にある調整池と背後の森もまさに蕭条の世界になっている。

「見渡す限り蕭条とした冬の景色をいう」(角川学芸出版『合本俳句歳時記』が、季語の説明だ。そして、蕭条は「ひっそりともの寂しいさま」という意味だ。冬になると、目に映る自然の眺めは、蕭条たる様相を呈する。調整池周辺も同様だ。そんな朝、霧に包まれて昔習った歌の歌詞をかみしめる。 

 さ霧消ゆる湊江の
   舟に白し 朝の霜
   ただ水鳥の声はして
   いまだ覚めず 岸の家
     (作詞/作曲未詳『冬景色』の歌詞1)

 1913(大正2)年の「尋常小学唱歌(5)」で発表になった曲だそうだ。この年は東北、北海道が冷害による大凶作に見舞われ、さらに翌14年には第一次世界大戦が発生している。日本も世界も決して平穏な時代ではなかった。そんな世の中であっても、こうした美しいメロディーは子どもたちの心をとらえたに違いない。(注・「さ霧」は霧のことで「狭霧」とも書く。「さ」は語調を整える接頭語だ。霧は秋の季語であり、この歌詞1は晩秋から初冬の光景を描いている)

「歌は不思議なものだ。体が歌詞をおぼえこんでしまっていて、時に口ずさんだりするが、その意味など考えてもみないものが多い。殊に子供のころにおぼえた歌にそれが多い。いわばオウムが意味を理解せずに人語を喋るようなものだ」。高橋治は『春夏秋冬 ひと歌心』(新潮文庫)で歌の魅力について、こんなふうに書いている。確かにそうだと思う。私もこの『冬景色』の歌詞を深く考えずに歌ってきた。私とすれ違った女性はどうだったのだろうか。

 言うまでもなく、12月は1年の終わりの月である。昨年から続くコロナ禍のため、あまり外出をしていない。多くの人が同様の生活を送っているだろう。それでも時間は駆け足で通り過ぎていく。新聞には今朝も嫌なことがいろいろ載っている。特に建設業の受注実績を示す国の基幹統計を国土交通省が書き換えていた問題、学校法人森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題の裁判、大手旅行会社HISの子会社によるGoToトラベル不正受給問題などが目についた。 

 中でも森友関係では改ざんを強いられ自殺した財務省近畿財務局職員赤木俊夫さんの妻雅子さんが国に賠償を求めた訴訟で、国側はこれまで否定してきた賠償責任を一転して認め、裁判はこれで幕引きになるという。大阪地裁であった訴訟手続きで国側の弁護士は、雅子さんの顔を一切見ずに1億700万円の損害賠償請求を「認諾する」と伝えたという。この結果、赤木さんが自死に追い込まれた経緯など、詳細な事実関係は不明のままに裁判は終結するといい、雅子さんは「ふざけんなと思います。なぜ夫が亡くなったのかを知りたいと思って始めた裁判。お金を払えば済む話ではない」と語った。冬の霧は晴れても、もやもやとした気持ちは消えない。

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写真 霧が立った調整池の風景(最後の1枚は霧が晴れた後)

2083 人間を笑う年の暮 世界に広がる犯罪地図

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 12月もきょうで10日。残すところことしも21日になった。年の暮である。昨年から続くコロナ禍。南アフリカで見つかった新変異株オミクロンが世界的に拡大し、世界中で新規の感染者が増え続けている。一方の日本。第5波が落ち着き、いまのところ感染者数も少ない状態だが、揺り戻し、第6波を心配する声も少なくない。そんな歳末のひととき正岡子規(1867~1902)の句を思い出し、冷静になろうと考える。

 人間を笑うが如し年の暮

 子規がこの句を作ったのは、1898(明治31)年で、31歳の時だった。脊椎カリエスの凄まじい痛みに耐えながら句作に没頭した子規。4年後にはこの世を去るのだが、ユーモアセンスあふれた句も少なくない。この句もその一つだ。コロナ禍におびえる私たちのことを指しているように思えてしまう。天野祐吉は、この句について以下のように読んでいる。

 わははははははは、
 馬鹿だねえ、人間ってやつは。    
 あははははははは。   
 そうですね、あなたもわたしも、    
 わははははははは。    
 あははははははは

          『笑う子規』(ちくま文庫

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 手元に一冊の詩集がある。2009年に旅立った詩人、飯島正治さんの『朝の散歩』(風心社)。26の詩が盛り込まれた詩集の中ほどに題名にもなった「朝の散歩」という詩がある。その中にこの詩人の憂いが書かれている。それは今の世界をも覆う閉塞感といっていい。

 私の前を歩く小さな犬のコロが
 ときどき振り返り私の歩みをせかす
 そんなに急ぐなよ 疲れるよ
 梅雨空の早朝 日課の散歩だ

 お前が家に来て
 地球が太陽をひと回り その間も
 海や陸地は微熱を出し続けている。
 偏西風に乗って来る汚染微粒子のせいか
 花粉症が治っても鼻の奥が変なのだ
 だからお前と同じようにくんくんしている

 テロや核問題や殺人
 今日の朝刊も犯罪地図を描いている(下線はブログ筆者)
 他の群れを支配したいという動物の
 本能を持ったまま脳を肥大化させたヒト
 自分さえいま良ければのエゴイスト

 私の周りの狭い地図のなかでも
 約束を反故にされたり
 思いが伝わらなかったり
 そういうことが重なると気が滅入るのだ
 霧雨が降りてきて暗い
 近道して家に帰ろう

 お前も犬の欲望を生きている
 牛乳やささ身には目がないし
 ときどき威張って吠える
 けれど一片の小ざかしさもない

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 朝刊を広げる。詩人が嘆くように、世界と日本の犯罪地図が描かれている。独裁者による国家的犯罪は目を覆うばかりだ。それだけではない。わが日本では、前の衆院選で落選した政治家が代表を務める政治団体がコロナの雇用助成金を受け取った話や私大理事長の巨額脱税容疑など、小ざかしい人間の欲望をえぐった記事も目に付く。2021年12月。まさに「人間を笑うが如し年の暮」といっていい。

 そんなざわめく気持ちを落ち着かせてくれる風景を見た。9日、暮れ始めたころの南西の空だ。低い位置に金星(宵の明星)が輝き、その左斜め上に三日月があり、さらにその上に寄り添うように木星が接近していた。人間界の犯罪地図とは無縁の、この天体ショー。朝の散歩の詩人も、どこかの星から見ていたのかもしれない。

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2082 コロナ禍続く年の暮れに 笑顔なきゴッホとベートーヴェン

 


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 2020年から続いているコロナ禍。間もなく2年になる。日本ではワクチン接種が進み、徹底した対策によって第5波が急速に収まりつつあり、見通しは明るいと思ったのは早計だった。南アフリカで見つかった新変異株、オミクロンが世界的に拡大し、成田から入国したナミビアの外交官が変異株に感染していたことが判明し、2例目も見つかった。揺り戻し、第6波を不安視する声が少なくない。そんな時、私はベートーヴェン(1770~1827)の「交響曲第5番・運命」を聴き、東京都美術館で開催中の「ゴッホ展」を見て「負けるものか」という思いになった。芸術は心の拠り所になるのだろうか。

 偉大な2人の芸術家に共通するのは何か。笑い話ふうに言えば、笑顔がないということだろうか。ベートーヴェンゴッホにも笑顔は似合わないし、2人が笑った顔を想像するのは難しい。ジャズピアニストとして知られる山下洋輔は「要は人間の本性だ。つまり、ベートーヴェンは笑わないのである。ひたすら、あの巨頭を振り立てて、叩き、たたみかけ、押しまくり、おどかし、また叩く。(中略)ベートーヴェンといたらさぞ窮屈だったろうと思う」(音楽の手帖『ベートーヴェン』)と書いている。一方のゴッホも晩年、精神の病に侵され、苦悩のうちに自死を選んだ。2人にとって、笑いとは縁がなかったのだろうか。それは文献では分からない。だが、笑いのない2人が残した音楽と絵画は、私たちに「生きる希望」を与えてくれるのだ。

ゴッホ展」はコロナ禍のため予約制になっている。だから先日行った東京駅前の三菱一号館美術館同様、ゆっくりと鑑賞する時間を持てるかと思った。それは当てが外れ、混雑した普段の日本の美術館の様相を示していた。著名な絵の前で人だかりができ、なかなか絵の前に近づけない。顕著だったのは、「夜のプロヴァンスの田舎道」だった。南仏滞在中の最後に描かれたとみられるこの作品は縦型のキャンバスで、真ん中に糸杉を配し、右上方に三日月、左上方には明るさの異なる2つの星が輝いている。この絵はプロヴァンスで見た風景に画家自身の想像を加えたといわれ、ゴッホの手紙にあるように「もっと心を高揚させ、もっと心の慰めになる自然を生み出した」傑作といえる。私は一枚一枚を見ながら、コロナ禍で沈んでいた気持ちが少し明るくなるのを感じた。それが笑わないゴッホの力なのだろうか。

  今回のゴッホ展に展示されたゴッホ作品の多くは、オランダの収集家、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869~1939)が集めたものだ。ゴッホが不遇のうちに亡くなったあと、その作品に深い精神性と人間性を感じた彼女は、夫で実業家アントンの協力を得てゴッホ作品を集中的に購入し、クレラー=ミュラー美術館を開館し、初代館長を務めた。

 そしてベートーヴェンである。詩人で劇作家のグリルパルツァー(1791~1872)は、友人ベートーヴェンについて弔辞でこんなふうに述べている。

《かれは芸術家であった。しかし、言葉の最高の意味において人間であった。もし君たちが善と美の正しい結びつきに迷うことがあったら、あの男のことを思い出したまえ。偉大な仕事をなしとげ、ついぞ悪意というものを持たなかったあの男を……》

 ベートーヴェンに関してはさまざまな文献に書かれているので、いまさら追加することなない。ただ、56年の生涯は苦闘の連続だった。それでも、ベートーヴェンの音楽はゴッホと同様に私たちに不思議な力を与えてくれる。そう、人生は苦悩が続いてもいつかは歓喜する日がやってくると信じよう……。

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 写真

1、近所の公園で。ゴッホの絵のような風景

2、ゴッホの「夜のプロヴァンスの田舎道」(ゴッホ展図録より)

3、黄色く輝いた上野公園の銀杏。

4、雨上がりの後、地図を描いたようにたまった落ち葉