小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2028 梅雨の終わりに想像の旅 青森キリスト伝説の村へ

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 横光利一の『梅雨』(河出書房新社『底本 横光利一全集第13巻』)という文章を読んだ。戦前の1939年に書かれた短い随筆だ。前年の梅雨について触れ、曇天が続いたこと、鶯が庭の繁みで鳴き続けていること、青森経由で北海道に行ったことなどが書かれている。青森にはキリストが住んだという村があるという記事を読んだこと思い出した横光は、途中でキリストそっくりの人物に出会った話も書いている。今年の梅雨明けも近いが、コロナ禍が続いているから、横光の文章を読みながら私も想像の旅をしてみようと思う。

『梅雨』によると、横光は川端君(担当の編集者か)と2人で奥羽本線に乗り青森に向かい、途中浅虫温泉で一泊した。その車中、八戸で崇神天皇(すじんてんのう。記紀によると、第10代天皇)時代にキリストが八戸にやってきて住み着き、ここで亡くなり、墓もあるという記事をある雑誌で読んだことが話題になった。2人はその荒唐無稽さに驚くとともに、このような夢を持たなければ生きられなくなった現代人の頭(精神構造のこと)について興味を持って話し合った。

  翌朝、浅虫から汽車に乗ろうとすると、待合室にいた多くの小学生に交じり用務員(原文は小使い)らしい詰襟の老人が弁当を持ってベンチに腰を下ろしている姿があり、その顔はキリストそっくりだった(ブログ筆者注。キリストの顔を私は知らない。さまざまな絵などから想像するだけだが、横光は老人の雰囲気からそう思ったのだろうか)。川端君は持っていたカメラで老人を撮影しようとしたが、気の毒だからとやめてしまい「不思議だねえ」と言った。この時、撮影していたなら、それを見た人は弁当を持ったキリストと思うかもしれない、それほど似ていた……と横光は書いている。

 この後、横光は「人間は荒唐無稽なものでも考えてをれば、だんだんその無稽が事實となってゆくといふ説があるが、(中略)八戸でキリストが死んだといふ説も、重苦しい梅雨の曇天の下では美しいひとつの現實の姿とならぬとも限らない。いや、現に八戸とあまりへだてぬ浅蟲の驛で、あやふく私もまたキリストの夢を見たのである。川端君もまたさうだ」と続け、北海道の伝統はキリスト教だと感じた印象を記している。

 横光のこの随筆は1939(昭和14)年7月1日発行の「大陸 第2巻第7号」に掲載された。実際のキリスト伝説は八戸ではなく、内陸にある十和田湖寄りの三戸郡新郷村(旧戸来村)に残っている。同村のホームページには「キリストの墓」と題して、概要以下のような説明が載っている。

《「ゴルゴダの丘磔刑になったキリストが実は密かに日本に渡っていた」そんな突拍子もない仮説が、茨城県磯原町(現北茨城市)にある皇祖皇大神宮の竹内家に伝わる竹内古文書から出てきたのが昭和10年のこと。竹内氏自らこの新郷村を訪れ、キリストの墓を発見した。1936年に考古学者の一団が「キリストの遺書」を発見したり、考古学・地質学者の山根キク氏の著書で取り上げられたりして、新郷村は神秘の村として人々の注目を浴びるようになった。キリストの墓と弟のイスキリの墓であるかは判断を預けるとしても、新郷村にはいくつかのミステリーがある。戸来(へらい)はヘブライからくるという説。父親をアヤまたはダダ、母親をアパまたはガガということ。子供を初めて野外に出すとき額に墨で十字を書くこと。足がしびれたとき額に十字を書くこと。ダビデの星を代々家紋とする家があること。そして、「ナニヤドヤラー、ナニヤドナサレノ」という意味不明の節回しの祭唄が伝えられていること…》

 ホームページに出てくる竹内文書は、古代の豪族、平群真鳥(へぐりのまとり。生年不詳~498)の子孫であるとされる竹内家に養子に入ったと主張する竹内巨麿(たけうちきよまろ)が公開した文書で公開後物議を醸したが、専門家によって古代文書を装った偽書だと断定されている。現在、キリスト伝説は、「キリストの里公園」や「キリストの里伝承館」を備えた神郷村の観光資源になっているそうだから、荒唐無稽と書いた横光もあの世で驚いているに違いない。ただ、これも村おこしの一例と思えば、目くじらを立てることはないか。

  写真 オニユリの季節になりました。

2027 異常・異例五輪開催へ ワクチン効果減少も懸念

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 コロナ禍が続く中で、スポーツが大きな話題になっている。23日から始まる東京五輪は、東京に4度目の緊急事態宣言が出されることが決まったことから、まん延防止重点措置が継続される神奈川、埼玉、千葉を加えた4都県で開催する競技は無観客開催となった。野球に目を転じると、海の向こうの大リーグで大谷翔平本塁打を量産し、松井秀樹の日本人記録31本を超える32本を打った。一方で平成の怪物といわれた松坂大輔が今シーズン限りで引退するという寂しいニュースもあった。スポーツに対する見方は無関心派、見るのもやるのも大好きな派と人それぞれだ。では、無観客で開催する東京五輪は世界中の人々の目にどう映るのだろう。

 8日夜、東京への緊急事態宣言を決めた後、記者会見した菅首相東京五輪について「40億人がテレビを通じて視聴するといわれるオリンピック・パラリンピックには、世界中の人々の心を一つにする力がある。新型コロナという大きな困難に直面する今だからこそ、世界が一つになれること、そして全人類の努力と英知によって難局を乗り越えていけることを東京から発信したい」と語った。だれもがこんな空虚な言葉に納得しないのは言うまでもない。

 アフガン侵攻に抗議して多くの西側諸国がボイコットしたモスクワ大会(1980年)、初めて聖火リレーを取り入れ、ヒトラー国威発揚に利用したベルリン大会(1936年)以上に、近代五輪史上稀な「異常な大会」になることは間違いない。何しろ、無観客で五輪をやるのは史上初めてなのだ。コロナ禍と闘う世界の人々の心がこうした「異例・異常」続出の五輪で、到底一つになるとはとても思えない。東日本大震災からの「復興五輪」というキャッチフレーズもとうに吹き飛んでしまった。五輪開催をめぐってこれほど批判が集まった大会を私は知らない。大会運営はだれが見ても苦難の道をたどるだろう。先のことは予断を許さない。しかし、見通しは暗いと言わざるを得ない。

 そんな時に、アメリカの大手製薬メーカーファイザー社の最高科学責任者が、ドイツのメーカーと共同開発した新型コロナワクチン(いわゆるファイザー)の3回目の追加接種(ブースター接種)の許可を8月中に米食品医薬局(FDA)に申請する方針を明らかにしたというロイター電を見た。2回目の接種から半年が経過すると、抗体が弱まり再感染のリスクが高まることやインド由来のデルタ株の広がりがこの背景にあるそうだ。ファイザーによると、3回の接種を受ければ抗体レベルは2回接種と比べ、5~10倍になるとのことだ。

 既にイスラエル保健省が6月のファイザー製ワクチンの感染・発症予防効果は64%まで低下した(当初は同95%前後)と発表しており、ワクチン効果の減少が懸念されている。ワクチン接種が世界で一番進んでいるはずのイスラエル羽田空港で来日した五輪選手の一人からコロナの陽性反応が出た。これを見ても東京五輪は危ういことが分かる。

 当初、新型コロナウイルスは、ワクチンの接種によって「集団免疫」ができて感染者が減少、数年で克服するという見方があった。しかし最近は次々に出現する変異株(デルタ株など)、一定数のワクチン忌避者の存在、子どもたちへの接種の遅れなどから集団免疫達成は困難という悲観的見方をする専門家も少なくないという。そうした中で、世界の多様な国々、地域から多数の人たちが集まる五輪が開催される。「全人類の努力と英知によって難局を乗り越えていける」と首相は宣言したが、私には壮大な社会・人体実験になるのではないかと思えてならない。

2026 山百合の香が漂う道 マスク外して一人歩き

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 山の百合山の子山の香とおもふ 飯田龍太 

 近所まで出かけた帰りに、人気のない道を歩いていると、山百合の香りが漂ってきた。マスクを外して、その懐かしく甘い香りを深く吸い込んだ。コロナ禍の中で一人歩きのぜいたくな気分を味わった。誰かがいたらマスクをつけるから山の香に気付かずに、通り過ぎたかもしれない。

  元々原野だったところを整備した公園の山道脇の斜面に、今年も山百合が咲いた。その姿を見ると、遠い昔のことが蘇る。学校へ通う道。途中、両側に切り立った崖があった。向かって右側の崖の上には古い神社が、左側の上にはお地蔵様を祀る祠があった。周辺は薄暗く、晴れた日はいいが、曇りや雨の日は薄気味悪い。

 今ごろの季節には崖の斜面に山百合が咲く。その香りを私は飯田龍太と同様、山の香りだと思った。飯田龍太ホトトギス派の代表的俳人飯田蛇笏の四男で、山梨県笛吹市で生涯を送った俳人だ。冒頭の句のように、自然への深い洞察が特徴の句を詠んだことで知られる。

『散歩で出会う花』(久保田修新潮文庫)を開くと、「山野の草原や雑木林の縁などで見られる。花は茎上部に複数あり10個を超えることもある。芳香が強い。花弁は白色で黄色い筋と赤褐色の斑点がありよく反り返る。ユリのなかでも花は大きく、サクユリなどの有名な大輪の変種もある」という解説が載っていた。私が歩いた山道の脇に咲いていたのは、いずれも一輪だけしか花はなく。やや寂しい。それでも、芳香は強く、百合たちのいのちの輝きを感じるのだった。

 7月下旬。夏休みに入ると、私は兄と一緒にこの近くの雑木林に足を踏み入れるのが日課だった。私たちは、けんかをさせて楽しむためにクワガタを捕まえるのだ。カブトムシは兄も私も全く興味がなかった。兄はクワガタが生息している木を覚えていて、幹を足で蹴って揺らす。すると、ぱらぱらとクワガタが地面に落下する。大きい奴を見つけて、持ってきた籠に入れて、家に持ち帰るのだ。もちろん、カブトムシには目もくれない。兄がいない時、私は勇気を出し一人で薄暗い森に入り、見よう見まねでクヌギやコナラの木を揺らしてクワガタを捕まえた。近くには山百合の花が咲いていて、その香りが私を包み込んでくれているようだった。  

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 今も故郷のあの道には、山百合が咲いているはずだ。しかし、現代の子どもたちがクワガタを求めてあの森に入るかどうかは分からない。

 

 写真 1、2枚目は山道に咲いた山百合。3枚目は散歩コースで見かけた庭先に咲いた山百合(こちらは一本の茎に多数の花が付いていた)

2025 出会いの瞬間に生れた悲劇の種 小池真理子『神よ憐れみたまえ』

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「どんな人生にも、とりわけ人生のあけぼのには、のちのすべてを決定するような、ある瞬間が存在する。ジャン・グルニエ/井上究一郎訳『孤島』」。この本のエピグラフである。この引用文は何を意味しているのか。私はこれまでエピグラフを注目して読んだことはほとんどない。エピグラフギリシア語のepigraphで和訳では碑銘・碑文)は本文の前に記される短い文章のことで、何気なく読んだ本書の引用文には間違いなく重い意図があったのだ。

 1963年(昭和38年)11月9日夜、国鉄(現在のJR)史上に残る大事故・鶴見事故が発生した。当時の国鉄東海道本線鶴見駅新子安駅間の貨物線で下り貨物列車が脱線、最後部2両が転覆し3両目が東海道線上り線にかかった。そこに横須賀発東京行きの上り電車が衝突し脱線。電車の最前部の1両は貨物と並行して走っていた東京発逗子行きの横須賀線下り電車4両目と5両目に衝突した。この事故は死者161人、負傷者120人という大惨事になった。この日は土曜日で、福岡県大牟田市三井三池炭鉱で死者458人を出す爆発事故も発生、「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」と呼ばれた。

  この夜、本書の主人公で12歳の私立小学校6年生、黒沢百々子の両親(函館の有名製菓会社の跡取り・黒沢太一郎と妻の須惠)が東京・久が原の自宅で何者かによって殺害されているのを通いの家政婦、石川たづが発見する。序章は犯人の男が百々子の両親を殺害する場面から始まるが、男の身元は明かされない。男は横須賀線に乗り、鶴見事故にも遭遇して、助かる。そんな入り方だから、ミステリー作品として展開するのかと読み進める。その思いはすぐに裏切られ、途中で2人を殺した男が誰であるかあっさりと明かされる。だが、警察の捜査は男に向かわず、犯行の動機が不明なまま物語は戦後の日本社会を背景に進行していく。

  両親を失った百々子は、否応なく犯罪被害者となる。マスコミには「血塗られた土曜日の令嬢」と書き立てられるが、その人生は決して後ろ向きではない。音楽家を目指す美貌の百々子の前にはさまざまな人たちが現れる。たづと夫で大工の多吉、長男の紘一と長女の美佐という石川家の人々は百々子を家族同様に温かく見守る。ほかにも祖父母の黒沢作太郎と縫、母の腹違いの弟で叔父の沼田佐千夫、池上署の間宮刑事と教師美村、百々子の結婚相手の北島らだ。これらの人々はこの本の中で重要な役割を果たし、百々子の人生に大きなかかわりを持つ人物もいる。美佐の息子律もその一人だ。

  本書の後半でようやく事件の動機が明らかになる。犯人の男の心理描写はウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ (Lolita)を思わせる。本書は終章で、律とともに東京から函館に移り住んだ百々子の晩年を描いている。ピアノを通じて輝く日々。だが、百々子に不幸の影が忍び寄る。戸惑いながらそれを意識し、生き抜こうとする百々子の姿は、夫の作家・藤田宜永をがんで失った小池と重なる。

 以前のブログに書いたが、『マルテの手記』(リルケ作)には「この世のことはどんな些細なことでも予断を許さない。人生のどんな小さなことも、予想できない多くの部分から組み合わされている」という一節がある。百々子と出会った瞬間に人生が狂い始めた男は言うまでもなく、私たちの人生には予断が許されない事象が待ち構えていることを痛感せざるを得ないのだ。小池は10年をかけてこの作品の構想を練ったと聞く。乃南アサ『チーム・オベリベリ』、村山由佳『風よあらしよ』同様、著者の代表作になるに違いない。

  本書の中でクラシックの2つの名曲が物語を肉付けするものとして使われている。冒頭の男の犯行現場では、ムラヴィンスキー指揮、レニングラード・フィル演奏のチャイコフスキー『弦楽セレナード』が流れている。百々子が父を回想する後半では、メンゲルベルク指揮のバッハ『マタイ受難曲』・「神よ憐れみたまえ」が出てくる。チャイコフスキーの『弦楽セレナード』は私が好きな明るい曲であり、陰惨な殺人事件の舞台回しに出てきたことに軽い衝撃を受けた。

『神よ憐れみたまえ』(新潮社・570頁)

 注 グルニエ(1898~1971)はフランスの作家・哲学者。パリ大学文学部で美学を担当した。『ペスト』を書いたアルベール・カミュ(1913~1960)は教え子で、グルニエから大きな影響を受けたといわれる。現在、東海道線横須賀線は別のルートになっているが、事故当時は同じルートを走っていた。

2024 連続幼女誘拐殺人事件の闇に挑む記者  堂場瞬一『沈黙の終わり』

 

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 知人から電話があり、4月に出版された本について話題になった。私もこの本を読んでいたから、知人との話が弾んだ。知人が話題にしたのは堂場瞬一の『沈黙の終わり』(角川春樹事務所)という上下の長編小説だ。作家デビュー20周年を飾る力作といっていい。以下は知人(A)と私(B)の対話である。

 A『沈黙の終わり』を一気に読みましたよ。私は新聞社のことはよく知らないのですが、今もこの本の主人公である、2人のような記者はいるのでしょうかね。

 B いると信じます。この本を読んで現役の記者、元記者はどう思うのか、とても興味がありますね。

 A Bさんは、元記者ですね。しかもこの本の主人公2人は社会部記者です。Bさんは、どう思ったのでしょうか。

 B 私はこの本の舞台である千葉と埼玉の両支局を経験しましたから、妙な懐かしさとともに自分の社会部時代を思い出しましたね。

  A Bさんは元社会部記者だったのですね。事件記者だったと誰かに聞いたことがあります。

  B ええ、昔の話になりますが、3億円事件やロッキード事件リクルート事件にかかわったのです。警視庁担当を2回、合わせて5年やったことがありますから事件不感症なんて自分で言うほど、相当な事件でないと驚くことがなくなってしまいました。社会部記者、デスク時代ともほとんど事件担当でした。千葉支局のデスク、浦和(現在は埼玉)の支局長もやりましたよ。

  A じゃあ、この本を読んで衝撃を受けることはなかったでしょうね。

  B ところが、そうではなかったのですよ。共感する部分が大半でした。同時に私は2人のような力量はなかったと、恥ずかしい思いをしています。

  この本のおおまかなストーリーはこんなことでしたね。

《ある日、千葉県野田市の江戸川沿いで7歳の小1女児の遺体が発見される。遺体の状況から殺害後、遺棄されたとして警察が殺人事件として捜査を始める。東日新聞柏支局長の松島は、長く社会部出身の編集委員をしていたが、定年を直前にして柏支局に異動し、この事件の取材にかかわる。松島は胃がんの手術をしていて、再発を恐れている記者だ。

  一方、このニュースを聞いて千葉に隣接する埼玉県を担当する埼玉支局の県警キャップで社会部に異動が決まっている4年生記者、古山は埼玉でもその4年前に江戸川を挟んで野田の反対側にある吉川市で8歳の女児が行方不明になったことを思い出し、取材を始める。そして、33年の間に江戸川を挟んだ両県で7件の女児殺人・不明事件があったことが浮かび上がる。だが、いずれの事件も捜査が途中でストップし、解決はしていない。この事実に疑問を抱いた2人が協力して取材を進めると、古山に対し埼玉県警の幹部から取材をやめるよう、圧力がかかる。千葉県警の署長も謎の自殺を遂げる。それでも取材を進めた2人は、この事実を記事にし、大きな扱いで掲載される。古山はこの取材途中で社会部に異動し、渋谷署を拠点とした3方面担当のサツ回りになる。

  この後、千葉(柏)、埼玉、本社(地方部、社会部)合同の取材班が編成され、次第に犯人像が明らかになっていく。しかし、犯人像や捜査ストップについて記事にするだけの決定的な証拠は得られない。2人は捜査ストップの黒幕である警察官僚出身の首相秘書官、犯人と思われる人物の父親で元有力国会議員をインタビューするが、記事にはできないまま時間が過ぎ、内閣支持率は危険ラインに達する。そんな時に犯人と思われた男が自殺する。そして、政変。事件のキーマンである首相秘書官と自殺した男の兄で元有力国会議員の長男の官房副長官は更迭される……という経過をたどる》

 最終的に犯人を指摘した記事になるわけですが、官僚と有力国会議員が女児誘拐殺人事件という凶悪犯罪の捜査をストップさせてしまうというストーリーのヒントは、昨今の政界・官界・産業界・マスコミ界に転がっていると思わざるを得ませんね。

  A そうです。この本では社会部系は粘り強い取材をする一方で、政治部記者についてはかなり厳しい書き方をしていますね。松島と同期の政治部出身の編集委員、佐野は政治家のメッセンジャーとして書かれ、松島とのやり取りで「俺の役目は歴史を間近で見ることだって思っている」が、最後のセリフですね。

  B 社会部に在籍した私から見たら、この本の政治部記者の姿はあたらずといえども遠からず、という感じですね。社会部デスク時代、ある事件で知り合いの政治記者から「あまり俺たちのおやじ(担当している政治家のこと)をいじめないでよ」と警告された経験があります。でも、政治部記者がこの本を読んだら不愉快になるでしょうね。作者の堂場はたしか読売新聞記者出身です。新聞社の内情に詳しいのは当然かもしれませんね。

  A でも、2人のような記者が健在なら、新聞は捨てちゃもんじゃないと思いますよ。

 B その点は同感です。そして、新聞記者は現場に居続けることが一番ですね。この本の最後にも、そのことが書かれています。この本を読んで私は社会部記者をやったことに悔いはないと、振り返っています。

  A『沈黙の終わり』の主人公の一人である松島は、千葉支局から社会部、そして編集委員となり、定年直前に千葉県の柏支局長になりますね。若い女性記者と2人だけのミニ支局です。そこで女児殺害事件に遭遇し、隣の埼玉支局の古山記者と連携して難事件に挑むわけですね。Bさんも現役時代、ネタ元が何人かいたと思います。この本では自殺した警察署長(野田署)のほか、内部告発をする朽木、上から圧力をかけられ警察官僚をやめた女性覆面作家、作家を紹介した埼玉県警のベテラン刑事、松島の大先輩の元新聞記者らも事件解明に重要な役割を果てしています。こうした人たちを通じて人間には良心とプライドがあるのだと、作者は訴えているのかもしれません。事件をめぐるこれらの人々をこの作家は的確に配置したと思います。私にとって、読み応えのある本でした。松島のがんという病との闘いについても、目が配られていますね。

  B インターネットの発達で新聞業界は斜陽産業といわれています。私が現役時代は黄金時代でしただけに、この変化には戸惑っています。沈みがちな新聞業界ですが、この小説のような記者たちは間違いなく存在すると信じています。そして、何より政治記者の奮起を促したいと思うのです。書評家の大矢ひろ子は、この本について朝日新聞の読書欄で「自らも新聞記者だった著者による、今の新聞メディアへの警鐘である。批判である。祈りである。(中略)心に刺さる。背筋が伸びる」と書いています。その通りであり、私は堂場からの現役新聞記者への応援メッセージのように受け止めました。同時に、松島のネタ元との対話や古山の渋谷署を拠点にした3方面担当サツ回り記者の動きの描写を読んで、既視感を覚えずにはいられませんでした。私はサツ回りは新宿署が拠点の4方面担当でした。

  A そうですか。2人の記者の姿はBさんの記者時代を投影しているようなものだったのですね。ところで、この本はコロナ禍の現代が舞台です。そしてコロナ禍の取材は、必ず後世に残るものでしょうね。大変厳しい取材が当分続くでしょうが……。

  B その通りだと思います。今、第一線で活動している記者たちのコロナ禍に関する記事は間違いなく歴史に残り、記者活動の記念碑になるはずです。

 

『沈黙の終わり』(角川春樹事務所・上286頁、下285頁)

2023 季節の色を描く 緑の『調整池』風景

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  四季折々、季節にはさまざまな色がある。どんな色が好きかは、人によって異なる。とはいえ、緑が嫌いな人は少ないのではないか。梅雨が続いている中で、緑がひときわ美しく感じるこのごろだ。ラジオ体操仲間のNさんは、私の散歩コースである『調整池』をテーマに、季節の色ともいえる緑を基調に1枚の絵を描いた。日常目にする風景だが、新鮮な感覚になるのも絵画が持つ力なのだろう。

  同じ6月という季節。ゴッホは黄色を前面に出した絵を描いた。黄色に目覚めたことによって後世に残る作品を残すことができた、と言っても過言ではないだろう。「黄色という色が自分を変えた。南仏の光に出会ってようやく自分は日本の浮世絵師たちのようになれた。あのくっきり感が出るんだ」。ゴッホは手紙の中で、黄色という色彩についてこのように書いている。ゴッホがパリから南仏プロヴァンス地方のアルルに移り住んだのは1888年2月のことだった。そして、作品にも描いた「黄色い家」を借り、黄色い色を絵に取り入れていく。『ひまわり』『麦畑』『種まく人』など黄色を基調とした作品群は、アルルで生まれている。

  色彩感覚という言葉がある。色を感じ取る能力、色を使いこなす能力、色を見分ける感覚……といった意味がある。絵を描くということはこの能力が優れているということであり、ゴッホをはじめとする美術史に残る画家たちは当然この範疇に入るし、Nさんら日曜画家も含まれる。ゴッホは黄色を使いこなす能力を発揮した。Nさんは緑の色を見分け、今回の絵に取り入れた。Nさんの絵には実際の調整池を構成する「水を貯えた池の部分とその後方の森」はなく、調整池全体の半分以上を占める湿地とその後方にある家並みが描かれている。

 湿地は大雨になると水がたまるものの、ふだんは雑草と雑木が生い茂っている。周辺は鶯や雉も数多く生息し、緑の色が目に優しいだけでなく耳にも鳥たちの鳴き声が心地いいから、散歩をする人が少なくない。調整池の魅力はもちろん夏だけではない。四季折々に姿を変えて、私たちを迎えてくれるのだ。私がそんな池の四季を撮影し続けて30数年が過ぎている。

  私はNさんの絵を見ていて、東山魁夷の『萬緑新』という作品のことを思い出した。2008年、東京国立近代美術館で「東山魁夷生誕100年」記念回顧展が開催され、ふだんは皇居吹上御所にあるこの絵も展示されていた。タイトル通りに緑がひときわ目立つ作品は1961年、福島県猪苗代町翁島を描いたもので、猪苗代湖の湖水には杉木立が映し出され、木々の緑が目に優しい。

 私は前日とこの日JRを利用して、福島を往復した。常磐線特急で水戸まで行き、水郡線に乗り換えて茨城、福島へと進んだ。1泊して、水郡線常磐線という逆のコースで東京に戻り、夕方、近代美術館へ立ち寄ったのだった。季節は4月下旬、水郡線の車窓からは曲線を描いた緑の山並みが広がっているのが見えた。時折、久慈川の川面に緑の木々が映っている。そうした風景は、「萬緑新」の世界と既視感があった。それは静謐さが漂う世界だった。 

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写真1、Nさんの水彩画 2、私がスマートフォンで撮影した26日朝の調整池風景

2022 学校へ行く道 黄金色に輝く麦秋の風景

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 一人の少女が泣きながら登校している。 背負っているランドセル。 黄色い交通安全のカバーが付いているから、小学校1年生だ。 なぜ、泣いているのだろう。

 小学校の方から歩いてきた、赤ちゃんを抱いた若い女性が聞いている。「どうしたの。困ったことがあるの」と。

 散歩から帰る途中の私。遠い昔、こんなことがあったと思い出す。

  女性の問い掛けに、女の子は首を振りながら歩いていく。人に話すほど困ったことはないと。でも、泣き続ける。女の子が寝坊して、親に叱られたのか。親が寝坊して、家を出るのが遅れて誰もいないのが悲しいのか。だれかにいじめられたのか……。

 理由は分からない。少し前に子どもたちは集団で登校し、彼女は一人ぼっちだった。女性はあきらめたように、その場を去っていく。

  私も昔、学校に行くのが嫌だった。小学1年生のころだった。一緒に行く友達はまだないから、途中まで祖母に送ってもらう。それが恥ずかしく、祖母から離れ、通学路脇の畑に入り込んで逃げ回った。そこは茶畑であり、麦畑だった。祖母の大声で叱る声があたりに響く。それも恥ずかしい。

 仕方なく、うなだれて祖母の下に戻る。祖母と別れると、涙が出てくる。それをこらえながら、とぼとぼと歩き続ける。夏休みまでの一学期、そんな日が珍しくなかった。

  人は、学校へ行く道を忘れないだろう。泣きながら登校したあの子も、いつの日か、泣きながら登校した今朝のことを思い出すかもしれない。それでも、こんな日ばかりではない。

 ジョン・ラスキン(イギリスの思想家・評論家)は「学校へ行く道」という詩に書いている。

《冬になって氷が張ると、冬になって雪がふると、学校へ行く道は長く、さびしい。その道を生徒が行く。

  だが、愉快な春が来て、花が開き、鳥が歌えば、学校へ行く道のなんて短いことか。そうして楽しい時間の短いこと。しかし、勉強が好きで、知恵を得ようとはげむ子には、学校へ行く道はいつでも短い。照る日も、雪の日も、また雨の日も。(以下略・日本少国民文庫より)》

  少女にとって、今朝の学校へ行く道は長くさびしいものだっただろう。私もそうだった。だが、友だちができ、風景を楽しむ余裕が生まれると、学校へ行く道は短くなった。黄金色に輝く麦秋の風景が私を見送ってくれていた。

 今朝は泣いていた少女。明日は友だちと笑い合いながら、歩いているだろう。

2021 リトマス試験紙的存在の五輪 人が生き延びるために

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「馬の耳に念仏」ということわざは「馬を相手にありがたい念仏をいくら唱えても無駄。いくらよいことを言い聞かせてもまるで理解できないからまともに耳を傾ける気がなく、何の効果もないことのたとえ」あるいは「人の意見や忠告を聞き流すだけで、少しも聞き入れようとしないことのたとえ」という意味だそうだ。「馬耳東風」も同じような意味だ。東京五輪パラリンピックをめぐる政府と政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会有志の動きを見ていたら、このことわざが頭に浮かび不快な気持ちになった。本来なら多くの人が待ち望む五輪なのに、そうではないから、開催されれば歴史に残る異常な大会となる可能性が大といえる。

 1965年のロンドン。ペスト・パニックにより多くの市民が犠牲になり、ロンドンから避難しようとした市民も途中で次々に命を失う。その実態を描いたのがノンフィクション、フィクションどちらにも読むことができるダニエル・デフォーの『ペスト』(中公文庫)という作品だ。この本には「悪疫(ペスト)流行に関するロンドン市長ならびに市参事会の布告 1665年」という当時の法令が出てくる。その一項目が「放蕩無頼の徒および有害無益な集会に関する法令」で、浮浪者や乞食(物もらいのこと)の取り締まりのほか、すべての芝居や歌舞音曲(歌と踊りと音楽)、そのほかの雑踏を招く催し物、宴会の禁止、飲食店での過度の飲酒の取り締まりと午後9時過ぎ以降の出入り禁止――といった具体例がある。「浮浪者や乞食」を除いては、コロナ禍に関しロックダウンを含めた世界の国々の対応策に通じるものだ。

「雑踏を招く催し物」といえば、東京五輪パラリンピックはその典型といえる。分科会の尾身茂会長は今月初めの国会で「今の状況で(五輪は)普通はない。このパンデミックという状況の中でやるということであれば、開催規模をできるだけ小さくして管理体制を強化するというのが、五輪主催者の義務だと思う」と発言し、注目を集めた。医学・医療関係者なら当然の発言だし、それが普通の常識だろう。逆に言えば、コロナ禍での開催はまともではないと言いたかったのではないか。

 だが、菅首相はこれに耳を傾けず、イギリスで開かれた先進7か国(G7)の会合で大会開催の賛同を得られたとして、大会開催と観客数を上限1万人とする「有観客」に固執していると報道されている。これに対し尾身会長ら分科会有志は18日、五輪に関する提言を発表。①会場内の感染リスク拡大が最も低いので無観客開催が望ましい②有観客なら現行の大規模イベント基準より厳しい基準にすべき③有観客の場合、観客は開催地の人に限る④感染が拡大し、医療が逼迫の予兆が出た場合は無観客に――などを求めた。もっと早い段階での「大会中止」の提言も考えられただろうが、政権側との駆け引きがあってこのような内容に落ち着いたのだろうか。

 五輪の観客をどうするかは、21日の5者協議(国際オリンピック委員会=IOC=のバッハ会長、国際パラリンピック委員会=IPC=のパーソンズ会長、大会組織委の橋本聖子会長、小池百合子都知事丸川珠代五輪相場メンバー)で決める方針だそうだ。もちろん中止の選択肢はないだろうし、分科会有志の提言がどこまで受け入れられるかは分からない。ただ、この提言を無視して大会を運営し感染拡大という事態になった場合、その責任は極めて重大だと断言できる。

 ここで改めて書くまでもなく、コロナ禍は21世紀の中でも特筆すべき災厄となるだろう。その対応は困難で試行錯誤が続くのは当然だとしても、政治は結果責任だ。多くの命を救うためには、専門家の意見に最大限に耳を傾けた施策が必要なことは言うまでもない。政治にそうした姿勢がないと、国民の犠牲は計り知れない。人が生き延びるためにどうすべきか、五輪はそのリトマス試験紙のような存在になりつつある。

 

 デフォーに関するブログ↓

 1948 世界が疫癘に病みたり デフォーが伝えるペスト・パニック

 

2020 ヒヨドリ親子の“食事”光景 厳粛な生への営み 

     

                  

     

 鵯(ヒヨドリ)の大きな口に鳴きにけり 星野立子

 俳句では秋の季語である鵯(ヒヨドリ)。夏の庭でも時折見かける。そのくちばしは大きくて目に付く。それを象徴する場面を見た。親鳥が雛に赤い実を食べさせているところだった。慌ててカメラを取り出し、写したのが上の写真だ。改めてこの写真を見ていると、自然界の生への営みの厳粛さと親子の愛情が伝わってくる。

  つい先日のことである。庭先でヒヨドリがうるさいくらいに鳴いている。それも1羽だけではない。何だろうと、外を見ると、わが家のキウイフルーツの枝に3羽のヒヨドリが止まっている。1羽は大きく、2羽は小さいから親子なのだろう。2羽は巣立ったばかりのように見える。そおっと近くに寄ると、3羽とも飛び立って隣家の庭の樹木に移っていった。その後、親鳥はそこからさらにどこかへと飛んで行った。

  2羽は親鳥が飛んでいく方を向いて、じっとしている。しばらくすると、親鳥が戻ってきて、口にくわえてきた小さな赤い実を1羽の口に入れている。雛の方は思い切り口を開け、それを飲み込もうとしている。親鳥はさらに雛鳥の口の奥まで押し込もうとしているように見える。雛がようやく実を飲み込むと、親鳥はそこを離れ、2羽も親鳥の後を追って、隣家の庭からどこかに飛んで行ってしまった。

  親鳥が運んできた赤い実は、近所の公園にある桜に付いた実のようだ。果物として販売されているサクランボではなく、ソメイヨシノなど様々な桜の木にも小さな実が付くから、野鳥にとって生きるための貴重な食べ物になるのだろう。ヒヨドリは頭の毛が逆立っているのが雄で整っているのが雌というから、私が見た親子のうち親鳥は雌で、幼鳥は餌をもらったのが雌でもう1羽は雄だったかもしれない。

  人を待つベンチ桜の実いつぱい 細見綾子(桜の実は夏の季語)

  ヒヨドリは鳩と同じくらいの大きさの野鳥で、「ピョーピョー」と鳴く。灰色の羽毛はどう見ても美しいとはいえず、メジロと一緒に庭に来ると、メジロを追い出して餌をついばんでいる。だから私は、ヒヨドリが乱暴な鳥に見えて好きになれなかった。だが、この親子の光景を見ていたら、そんな先入観は少し捨てた方がいいように思えてきた。

『麦と兵隊』など兵隊三部作で知られる作家火野葦平(1907~1960。現在の北九州市若松区出身)の生涯を振り返る企画展が、昨年、北九州市立文学館で開かれたことが新聞に出ていた。約200点が展示された中に、『鵯の日記』というヒヨドリが書いた日記という体裁の未公開の童話も含まれていた。18歳だった早稲田大学時代に出版社に持ち込んだが、出版には至らなかった作品だそうだ。詳しい内容は分からないが、作品のテーマに選んだのだから若い時代の火野にとってヒヨドリは身近な存在だったことは間違いないだろう。

 きょう午後2時52分、わが家で昼の間だけ預かっていた娘一家のミニチュアダックスフンドの雌の「ノンちゃん」が天国に旅立った。15歳だった。ヒヨドリの親子の姿は生への喜びを、ノンちゃんの死は生命のはかなさを感じさせた。病と闘い終わったノンちゃんは、眠っているような穏やかな顔に戻っていた。

 

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 写真1、親鳥から赤い実(桜の実らしい)をもらう幼鳥(上)

   2、同じ方向を向いて親鳥を待つ2羽の幼鳥(上は雌、下が雄か)


 

2019 ブログ移行の試み 2カ月半続いた試行錯誤 

 

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  2006年9月から続けていた拙ブログ『小径を行く』を3月限りでストップ、タイトルを『新・小径を行く』に改め再スタートした。サービスサイトをビッグローブKDDI系列)運営の「ウェブリブログ」から、はてな社運営の「はてなブログ」に変更したことが理由である。サイドバーにある「検索」の機能の差が大きく、やむを得ない選択だった。

  以前はキーワードを入れると、その言葉が含まれる記事が正確に出てきた。しかし、いつからかは不明だが、ビッグローブの検索機能は貧弱になってしまった。例えば、旧『小径を行く』の検索に「ゴッホ」というキーワードを入れてみる。すると10本の記事がヒットする。では『新・小径を行く』ではどうだろう。3倍以上の32本の記事が出てくるではないか。俳句の(正岡)子規は前者が16本、後者は67本。文豪(夏目)漱石は8本と28本だ。正確という点で、後者の方が格段に優れていることが分かる。

  15年近くブログを続けていると、その回数も多くなっており、最新の記事は2018回目だった。私の場合、以前どんな内容の記事を書いたかを調べる意味でも検索機能は重要だから、問題なく検索ができるサービスサイトが必要だ。そのことを考えた末の移行だった。

 しかし、数多い記事、写真を移行するのはそう簡単ではなかった。データの出力と入力をする「エクスポート」と「インポート」の機能を使い、移行作業をしたが、インポートされた記事は改行、段落がなく、読みやすくする作業に1カ月ほどを要してしまった。さらにブログの顔ともいえるデザインをどんなものを使ったらいいのか、頭を悩ました。はてなブログには、公式テーマというデザインとその他のデザインがかなりあり、いずれを使っても無料。何度か試行錯誤の末にとりあえず現在のはてなブログ「ニューモフィズム」というデザインに落ち着いた。

  ただ、そのままのデザインでは拙ブログとはやや違和感があり、記事のフォントやサイドバーのスタイルを一部変更した。それらはweb上に先行例が出ており、CSS(スタイルシート)コードをコピー、ペーストして手直しができた。

  私のブログははてなブログの無料版を使っているため、本来はトップ頁の記事一覧のサービスはない。しかし、先行例を見ると、自動的に「アーカイブ」ページを表示させるという手法があり、実際のそれを参考に試してみると、トップ頁が記事一覧になった。 

 ウェブリブログは2019年7月、大規模リニュアルを実施し、デザインも含めて大幅な変更があり、利用者から「使いにくくなった」「最悪になった」などの批判が相次いだことがある。検索がいつから貧弱になったのかは不明だが、このころからかもしれない。はてなブログを運営する、はてな社は「人力検索はてな」で知られ、検索機能は充実しており、書き込み回数が多い利用者には適しているサービスサイトといえるようだ。 

 ブログは1990年代後半に始まり、アメリカでは2001年の9・11テロで急拡大したという。日本では2003年ごろから広がったといわれる。私はその3年後にスタート、今年9月で丸15年になる。1500回目(16年7月16日)のブログに「自然を友にした散歩の途中、現代世相について考えたことを自由気ままにつづってきました。方向性はもちろんありません。これからもマイペースで書き続けたいと思っております。」と書いた通り、今後も自由な発想でブログを継続したい。